徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
襖を抜く
1972年
油彩 キャンバス
104.0×73.3
山下菊二 (1919-86)
生地:徳島県
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山下菊二襖を抜く
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所蔵作品選1995

山下菊二 「襖を抜く」

江川佳秀

黒い人影と、むき出しの襖の桟が描かれています。人影の向こうに広がる闇の入口では、犬が皿を咥えて控えています。西日本一帯に広く流布し、山下の郷里でも頑迷に信じられていた「犬神憑き」を描いた作品です。
 「犬神憑き」について簡単に説明をすると、犬神(動物霊)が人間に憑依するという迷信です。てんかんや精神疾患などの病状は、犬神の仕業だというのです。近世までの日本人にとっては理解を超えた病状であり、条理を越えた世界に原因を求めようとしたのでしょう。そして、犬神は発症した本人だけでなく家族にも憑依するとされ、結婚や社会的な交際の場で差別の対象とされました。また、発症した人から何代経っても、その家系は犬神が憑依している「犬神筋」とされました。
 さらに、問題を複雑にしているのは、そのような病人を出したことがない家系であっても、「犬神筋」とされることがあったことです。それまで自分たちと同程度だと思っていた家が突然事業で成功したり、優秀な子弟が出て家名を上げたりすると、犬神のおかげとされることがあったのです。ねたみや嫉妬そのものであり、「犬神憑き」と貶めることで人々は精神的な均衡を保とうとしたのでしょう。
 作者の山下菊二は、第二次世界大戦中2度にわたって召集を受け、戦後は自らの戦争体験を見つめ直すことで、戦争や幼少期に郷里で目撃した部落差別などを一連の問題と理解するようになりました。戦場で上官の命令を拒否できなかった自分も、うれしいはずがない息子の出征を万歳で送り出した両親も、世間体や因習、迷信といった言葉に象徴される前近代的な精神世界にとらわれていたと考えたのです。そして、そういった人々の心のあり方が戦争を支え、差別をはじめとするさまざまな人権問題も生み出していると考えました。幼少期を振り返って、「町中がおたがいの背後に廻って、そっと覗きこんでいるような意地の悪い視線」を感じていたとも述べています。(『くずれる沼 画家・山下菊二の世界』すばる書房 1979年)「犬神憑き」は、前近代的な社会の病理を象徴する問題の一つといえるでしょう。
 もう一度図版の作品に戻ると、髪を高島田に結った黒いシルエットは「犬神憑き」の家に嫁ぐ花嫁なのでしょう。犬神は正装して花嫁を迎えています。「犬神憑き」の家に嫁いで3年間その家の食事をとると、花嫁にも犬神が憑依するとされました。襖の向こうに広がる闇は、花嫁がこれから生きていく人生の闇であり、同時に町の人々の心に巣くう暗闇なのでしょう。襖に描かれた満開の白梅と骸骨が、人々の心を縛り続ける歳月の長さを暗示しています。
徳島県立近代美術館ニュース No.111 January.2020 所蔵作品紹介
2020年1月1日
徳島県立近代美術館 江川佳秀