徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
森堯之 ロシア教会
ロシア教会
1941年
油彩 板
40.8×31.9
森堯之 (1915-44)
生地:徳島県徳島市
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森堯之ロシア教会
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森堯之 「ロシア教会」

江川佳秀

 このたび県立近代美術館では、森堯之のご遺族から、森の作品と素描、あわせて12点のご寄贈をいただきました。この作品もその1点です。この作品が描かれた1941年、森は中国東北部の都市大連にあった夫人の実家に滞在し、周辺の町を写生して歩きました。この作品はハルビン市の郊外にあったロシア人墓地を描いています。木製の門の向こうに見えるのが、ロシア正教の礼拝堂。周囲に葉を落とした灌木が生えた墓地が広がっています。小さな画面ですが、大陸特有の突き抜けるような空間が広がっています。
 森堯之といっても、ご存じない方が多いのではないでしょうか。近年になって、各地の美術館の展覧会に作品が取り上げられるようになり、ようやく再評価のきざしが現れています。しかし、今なお地元の徳島でも、名前を耳にしたことがないという人が多いようです。
 森は1915年に徳島市大工町に生まれ、旧制徳島中学(現・城南高校)を経て、34年に帝国美術学校西洋画科に入学しました。その頃の日本の美術界では、フランスがらもたらされたシュルレアリスムが脚光を浴び、若い画家達によって盛んに試みられていました。シュルレアリスムが、新しい時代を象徴する美術思潮だと受けとめられたようです。森も美術学校の友人達の熱気に巻き込まれ、次第にシュルレアリスムに傾倒していきました。在学中から独立展に出品し、独立展の新傾向を代表する若手作家として注目を集めました。39年に、日本の代表的なシュルレアリスム作家が集まった美術文化協会が誕生すると、森も創立会員として迎えられています。
 41年に召集をうけ、44年に29歳の若さで戦病死しましたが、この時代の日本のシュルレアリスムを考える上で、見逃すことができない作家の一人だったといえるでしょう。もっとも森の作品で現存するのは、ほんのわずかです。現存が確認できたのは、今回ご寄贈いただいた12点を含めて、18点にすぎません。多くがこのようなシュルレアリスム絵画はほとんどありません。徳島の実家にあった独立展や美術文化展の出品作は、45年の空襲で焼失し、東京のアトリエにあった作品も、森が出征したあと夫人が大連の実家に疎開していたため、戦後のどさくさで行方不明となってしまいました。生前の活躍にもかかわらず、名前が忘れられてしまったのは、主要な作品が残っていないことも原因となったようです。
 この作品もシュルレアリスムとはほど遠い、写実性を強く意識した風景画です。戦争が激しくなると、シュルレアリスムの作家は、シュルレアリスムを危険視する当局によって圧迫を受けました。この作品が描かれた41年の春には、美術文化協会のリーダーだった福沢一郎が逮捕、投獄されるという事件も起こっています。彼らはシュルレアリスムを離れた制作を余儀なくされ、日本神話に題材を求めたり、古典的な写実に回帰するなど、さまざまな対応をみせました。この作品からも分かる通り、晩年の森も彼なりに新しい画風を模索していたのでしょう。
 しかし毛筆で描いた線描は的確で、神経がとぎ澄まされたような緊張感が画面に漂っています。森の並々ならぬ技量がうかがえる作品といえるでしょう。出征のため完成することなく終わってしまいましたが、それ以降の新しい展開を予感させるかのようです。
徳島県立近代美術館ニュース No25 April.1998 所蔵作品紹介
1998年3月
徳島県立近代美術館 江川佳秀