徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
学芸員の作品解説

山
1942年
油彩 キャンバス
130.0×193.0
1942年
油彩 キャンバス
130.0×193.0
石丸一 (1890-1990)
生地:徳島県小松島市
生地:徳島県小松島市
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石丸一山
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この執筆者の文章
石丸一 「山」
江川佳秀
西国三十三ヶ所観音霊場のひとつ、中山寺(兵庫県宝塚市)の近くにあった石丸のアトリエからの風景です。折り重なる山脈は六甲山、左端の丸い山塊は甲山です。大阪や神戸に近く、今でこそ新興住宅街が広がる場所ですが、戦前は山裾に農家が点在するのどかな場所でした。石丸はこのアトリエがお気に入りで、休みごとに大阪の自宅から通っていたといいます。石丸は現在の小松島市立江町に生まれました。旧制徳島中学(現県立城南高校)を経て京都帝国大学医学部に進学し、大学時代から洋画に熱中しています。卒業後は大阪市内で医院を開業し、そのかたわら信濃橋洋画研究所で本格的に洋画を学びました。1927(昭和2)年に始まった全関西洋画展に第1回展から出品し、1928(昭和3)年の第3回展で朝日賞を受賞。1931(昭和6)年には関西の仲間たちと「ロボット洋画協会」を結成し、時代の最先端をいくシュルレアリスムの作品を発表して美術界の注目を集めました。また、1928(昭和3)年からは二科展に出品し、1938(昭和13)年には二科会の前衛的な画家が集まった九室会の結成にも参加しています。石丸が医師であったことは間違いありませんが、戦前の一時期は、関西のみならず日本の前衛美術を代表する画家の一人でした。
この作品は1942(昭和17)年第29回二科展の出品作です。この作品で石丸は二科会会員に推挙されました。しかし画面には、よく知られた前衛画家石丸の面影はみじんもありません。山々や木々は意匠化され、素朴で、淡く懐かしいような情感を漂わせています。
石丸がこの作品を制作した背景として、当時の世相を考えることもできそうです。1940(昭和15)年頃を境に、日本の美術界は急速に戦争の色を濃くしています。前衛美術は軍部によって危険視され、前衛画家たちは筆を折るか、それまでとは全く違った絵を描くことを求められました。1941(昭和16)年には、日本のシュルレアリスムの中心にいた画家福沢一郎と評論家瀧口修造が、検挙、拘留されるという事件も起きました。時代の潮流を察した石丸が、新しい画風を試みていたと考えることもできそうです。
もっとも石丸は、その少し前から様々な画風を試していて、この作品の前後は具象に回帰した風景画や静物画を描いています。この作品では、目を凝らすと、筆先で置いた無数の細かい絵具の点が画面全体を覆い尽くしていることがわかります。これだけの大画面ですから、途方もなく時間と根気がいる作業であったはずです。新しい画風が当時の世相と全く無関係だったとは言い切れませんが、この作品の制作は、石丸にとって造型の楽しみを味わう営みだったのでしょう。会心の1点であったらしく、石丸は亡くなるまでこの作品を自宅に飾り、いつもその前に腰掛けていたということです。
戦後は、1948(昭和23)年に関西の画家が集まった汎美術協会の結成に参加しましたが、やがて画壇と疎遠となり、時折個展を開くほかは、画壇と無縁な場所で絵を描き続けました。
徳島県立近代美術館ニュース No.103 October.2017 所蔵作品紹介
2017年10月
徳島県立近代美術館 江川佳秀
2017年10月
徳島県立近代美術館 江川佳秀