徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
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方舟はもう現れない
2025年
油彩、アクリル、オイルパステル、グリッター、ラインストーン ベルベット
直径.180.0
2025年
油彩、アクリル、オイルパステル、グリッター、ラインストーン ベルベット
直径.180.0
谷原菜摘子 (1989-)
生地:埼玉県
生地:埼玉県
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谷原菜摘子方舟はもう現れない
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この執筆者の文章
谷原菜摘子 「方舟はもう現れない」
久米千裕
光を放つかのようにきらきらと輝く水面の美しさに、思わず目を奪われてしまいます。水面には、白いドレスをまとった人形がぷかぷかと漂っています。よく見ると、その中にひとりだけ、生身の女性の姿が紛れ込んでいることに気づくでしょう。こちらを見つめる彼女とふと目が合った瞬間、観る者はこの不思議な世界へと引き込まれてしまいます。作者の谷原菜摘子(1989–)は埼玉県に生まれ、現在は関西を拠点に活動しています。京都市立芸術大学大学院在学中より、絹谷幸二賞やVOCA奨励賞などを受賞し、早くから注目を集めてきました。近年では国内各地で個展を開催するほか、グループ展にも出品し、精力的に作品を発表しています。黒や赤のベルベットを支持体に、油彩やアクリルに加えて、グリッターやスパンコール、金属粉といった多様な素材を用い、個人的な記憶や体験を起点としながら、民話や伝承、さらには現代社会が抱える問題を重ね合わせた、物語性のある作品を制作しています。
本作には、海に浮かぶリカちゃん人形と、谷原自身の姿が描かれています。リカちゃん人形は、谷原が幼少期に唯一持っていた人形でしたが、いつの間にか失われてしまったといいます。子どもたちの憧れの存在であり、大切にされながらも、成長とともに忘れ去られ、やがて見えない場所へと追いやられていくリカちゃん人形。谷原はこの経験について、「飽きられやすく、代替可能であり、消費されてしまう若さや女性性といった、人間の冷酷さが象徴されて」*いると感じたと語っています。
人形の顔についた水滴は涙のようにも見え、救いとなる方舟が現れないことへの不安や悲しみを想起させます。しかし一方で、画面全体には過度な悲惨さはなく、浮遊感とともに、煌びやかさやどこにも縛られない自由が広がっています。さらに、画面の中の谷原の力強い眼差しからは、仮に方舟が現れたとしても、人形―すなわち消費されてしまう若さや女性性―とともに同じ方向へ進むことが、本当に望ましいのかという問いが読み取れるようにも思われます。
さあ、方舟が来なくなった今、あなたならどこへ向かいますか。漂流のなかで自らの在り方を選び取ろうとする谷原の姿は、観る者にそう問いを投げかけているようです。
*ギャラリーを通して谷原氏から聞き取り2025年8月5日付メール
徳島県立近代美術館ニュース No.137 April.2026 所蔵作品紹介
2026年3月31日
徳島県立近代美術館 久米千裕
2026年3月31日
徳島県立近代美術館 久米千裕