徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説

1939年
絹本着色
124.1×185.5
廣島晃甫 (1889-1951)
生地:徳島県徳島市
データベースから
廣島晃甫
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廣島晃甫 「蓮」

森芳功

 ここに「日本画とは何か」という問いかけがあるとします。むろん、その問いに対しては、さまざまな答えがあるとしても、日本の伝統的な絵画、というあたりが有力な答えの一つとなるでしょう。しかし一方で、その答えであれば、自明のことのようでありながら、すっきりしない気持ちの残る人もいるのではないでしょうか。
 実は、この「日本画」という言葉は、そう古い時代からあった言葉ではないのです。近代の国語辞典に「日本画」という項目が現れるのは、1927年初版の「言泉」以後のことだといわれています。伝統的な絵画を表す言葉が、近代に通用し始めた言葉だということは「日本画」の秘密を解くカギとなりそうです。
 「日本画」の使用例をさかのぼって調べて行くと、明治初期のある文献につきあたります。当時、政府の近代化政策のもとで「お雇い外国人教師」と呼ばれた人たちが、さまざまな分野で活躍していました。その中の一人、美術研究科フェノロサの講演(1882年)を訳した「美術真説」に、「日本画」は、西洋画法の絵画と対比されて登場します。つまり「日本画」は、翻訳語として、しかも西洋画法の絵画=「洋画」と対になって生まれたものなのです。また「日本画」がこれまで中国から学んだ画法など、従来の伝統絵画のすべてを含み込む言葉にまとめられたのも「洋画」に対する絵画と考えられたからにほかなりません。
 今日でも、絵画のジャンルを語るときに、同じ日本の絵画であるにもかかわらず「日本画」、「洋画」という使い方をよくします。それは、明治以降、展覧会の出品区分などで使われて定着してきたものなのです。また、このフェノロサの講演は、伝統的な絵画を新しい時代に対応させるきっかけともなりました。しかし、取り入れようとしたのは西洋の絵画表現であったため、日本画家は、自分の立脚する日本や東洋の伝統と新たに学ぶ西洋を自己の内部で葛藤(かっとう)させながら、吸収しなければなりませんでした。フェノロサの講演から半世紀後の作品である廣島晃甫(ひろしま・こうほ)「蓮」(はす=県立近代美術館蔵)をみても、伝統的な線による表現が西洋的な写実主義と結びつけて表されていることがわかるはずです。
 日本画という言葉には、西洋の絵画に対する伝統絵画の意味とともに、東洋・日本の絵画の伝統と西洋の絵画のぶつかりあいのなかで生まれ展開してきた、近代の絵画としての意味も含み込まれているのです。

(「広島晃甫」の人名表記を「廣島晃甫」に改めました。)
徳島新聞 県立近代美術館 44
1991年8月8日
徳島県立近代美術館 森芳功