徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
赤装女
1941年
絹本着色
165.0×105.0
廣島晃甫 (1889-1951)
生地:徳島県徳島市
データベースから
廣島晃甫赤装女
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廣島晃甫 「赤装女」

森芳功

 近代の日本画には、東京と京都という2つの中心地があります。今回は、東京における日本画に目を向けておきたいと思います。
 徳川幕府の崩壊によって、御用絵師をつとめた狩野派など伝統的な画派が衰退し、それに代わって洋画が盛んになったのが明治初年の東京画壇と言えます。その後日本画は、政府の国粋的政策で息を吹き返し、先に述べたフェノロサや、彼に続く岡倉天心らによって試行錯誤を重ねながら新しい道筋がつけられて行きます。天心に指導された日本美術院の作家たちが、日本画の生命とも言うべき線を排した朦朧体(もうろうたい)と呼ばれる表現を試みたこともその一つです。
 そして、近代の日本画にとって画期的な出来事となったのは1907年の文展(文部省美術展覧会)の開設です。文展は、さまざまな傾向の作家の統一した舞台となりました。その半面、日本美術院系の新しい表現を追求する新派と保守的傾向の旧派が対立し、審査員の人事でも争うことになります。結局1914年、横山大観、下村観山などが文展を離脱し、日本美術院を再興します。以後、官展として文展やそれが改組した帝展(帝国美術院美術展覧会)、在野にある院展がきっ抗し、東京を中心とする展覧会の2本の柱が形づくられていきます。
 東京画壇を舞台にして活躍した作家としては、徳島市出身の廣島晃甫(ひろしま・こうほ)に触れておきたいと思います。この春、県立近代美術館で開催した「大正の新しき波 日本画1910-20年代」展でも、東京画壇の文展・帝展系の代表的作家の一人として展示されました。東京美術学校で学んだ晃甫は、洋画や創作版画の分野で実験的な活動を行った後、1919年の第1回帝展、翌年の第2回帝展に日本画を出品し、連続して特選を獲得します。このデビューは、後々まで語られるような華やかなものでした。晃甫はその後も、しばしば審査員に選ばれるなど、帝展、文展を中心に活躍を続けます。
 図版の作品は、1941年の第4回新文展に出品された「赤装女」(せきそうじょ=県立近代美術館蔵)です。大正期から昭和初期にかけて、帝展・文展系の日本画の人物表現は、歴史上の人物だけでなく、現代風俗などにもモチーフを広げていきますが、この作品は、その延長線上で描かれた新鮮な感覚を持っています。第1回帝展の特選作も中国服の女性像でしたが「赤装女」は、いわば晃甫お気に入りの題材を新たに展開したものと言えるでしょう。
徳島新聞 県立近代美術館 46
1991年8月23日
徳島県立近代美術館 森芳功