徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
九十九里浜II
1966年
紙本着色
219.4×175.5
大森運夫 (1917-)
生地:愛知県
データベースから
大森運夫九十九里浜II
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大森運夫 「九十九里浜II」

森芳功

 日本画家について調べていると、恵まれた暮らしのなかで、のびのびと自己の感性を表した人だけでなく、さまざまな困難を乗り越え、力強く画業を築き上げた人と出会うことがあります。大森運夫は後者の人と言えるでしょう。
 大森は、1917(大正6)年愛知県生まれ。3歳のとき、当時猛威をふるったスペイン風邪で父を亡くし、母親の手ひとつで育てられました。苦学し、広島高等師範学校(現在の広島大学)に進みますが、結核のため退学。長い療養と軍隊生活を経て、第二次世界大戦後、郷里で国語の教師となります。絵の制作をはじめたのは33歳のとき、日本画家の中村正義と出会ってからでした。美術学校や芸術大学で学んだわけでなく、働きながらの遅い修行のスタート。画家として立つ決心をして東京に出たのは、45歳のときでした。
 展覧会に出品しても、入選したり落選したりして、順調だったわけではなかったようです。しかし彼の場合、そのような経験は作品の魅力を深める土壌となっていったように感じられます。庶民の姿を描いたのも、彼の生い立ちや生活経験なしには語ることはできません。
 〈九十九里浜II〉(1966年)は、漁師の一家を表した作品です。彼が千葉県の九十九里浜を描きはじめたのは1950年代のことで、アメリカ軍の実弾訓練のため漁ができず苦労する人たちを表したのだそうです。
 そして、1960年代。この作品では遠景に煙を吐き出す工場が描かれました。訓練場は撤去されましたが、高度経済成長期に入り、鰯の地引き網漁で知られた九十九里浜も昔ながらの漁ができなくなりつつありました。そんな時代の漁師一家を、浜で網の手入れする人たちを背景に力強く表しています。
 しかし、決して暗い絵ではありません。とくに、赤ちゃんに母乳を与える母親の姿は、どっしりと豊かです。母親の横にいる子供もその父親も、しっかり大地に立つ安定感が感じられるのではないでしょうか。
 この作品を含め大森の母子像には、4、5歳くらいの男の子や乳飲み子がよく登場します。子供は大森の自画像であり、母子像には、若くして夫を亡くし病弱な子供を育て生き抜いた母の姿が重ねられていると言われています。
大森は、次のように書き残しています。

 喜び、悲しみにつけ、「もし秋元(父の名)が生きていてくれたら・・・・」といった母の嘆きが、耳に残っている。
*「思い出」「大森運夫画集」求龍堂、1996年、p.176

 たくましい母子像には、作者の理想や複雑な思いが幾重にも塗り重ねられているようです。
 彼は幼い頃、静かに絵を描くのが好きだったといいます。家庭の事情で画家になるのを一旦はあきらめたのですが、その押さえつけてきた想いが画家になってから大作に奔流のように流れこんでいったのでしょう。〈九十九里浜II〉の漁師一家には、そのような彼の原点とつながる凝縮した力強さが感じられます。
徳島県立近代美術館ニュース No.70 July.2009 所蔵作品紹介
2009年7月1日
徳島県立近代美術館 森芳功