徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
毘沙門天弁財天
1911年
紙本着色 屏風(六曲一双)
各169.5×362.5
下村観山 (1873-1930)
生地:和歌山県
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下村観山毘沙門天弁財天
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下村観山 「毘沙門天弁財天」

森芳功

 金地の六曲一双の屏風に、毘沙門天(びしゃもんてん)と弁財天(べんざいてん)が描かれています。右側の屏風(右隻)に表されているのが毘沙門天です。もともと、古代インド神話の神さまだったものが、仏教に取り入れられ、室町時代の日本では七福神の仲間となっています。時代によってさまざまな姿をとりますが、この作品では、金の甲冑を身につけ、岩に腰を下ろす男性の姿で描かれています。左側(左隻)の弁財天も、インド起源の神で、ここでは、琵琶をひく女神の姿で表されています。いずれも、福神信仰のなかでは財福の意味をもつこともあって、金地の余白をたっぷりとった豪華な屏風にふさわしい題材といえます。
 この作品を描いた下村観山(しもむら かんざん 1873‐1930年 和歌山県生まれ)は、日本美術院を代表する作家の一人として、近代の新しい日本画をつくるために力を尽くした画家でした。能楽と深く関わる家系に生まれながら、少年の頃から絵に親しみ、新設された東京美術学校(現在の東京芸術大学)に一期生として学びます。そこで生涯の師となる岡倉天心(おかくら てんしん 美術行政家、美術評論家、思想家)に認められ、天心を中心とした美術団体、日本美術院の創立に参加したのです。観山は、横山大観(よこやま たいかん)、菱田春草(ひしだ しゅんそう)らとともに、美術院の活動を引っ張っていきました。
 とはいっても、日本美術院の活動が常に順風満帆だったわけではありません。実験的な表現が世間から受け入れられず、経営難となり、東京から茨城県北部の五浦(いづら)に移転を余儀なくされることもありました。「日本美術院の都落ち」といわれる、たいへん苦しい時期でした。しかし、荒海に面した断崖のそばに建つ研究所で、「禅堂の座禅僧のよう」に制作することで、いくつもの名品が生み出されました。観山の〈木間の秋〉(1907年 重要文化財)がそうですし、この〈毘沙門天弁財天〉(1911年)もその一つといえるでしょう。
 〈毘沙門天弁財天〉制作中のエピソードが残っています。
 ある日、天心が研究所に近い自宅にもどってから、朝まで一睡もしないので、妻の基子が不審に思っていると、昨日「弁天を見て小言を言って来たから、下村も多分寝ないで居るだろう。」だから見てきてほしい、というのです。基子が「未明の露を踏み分けて」研究所にいってみると、観山は、やはり屏風の前に座っていたといいます。天心の「小言」とは、琵琶をかなでる音が聞こえてこない、というもので、観山は、熟考の末、弁財天の「座下」にヒオウギを描き加えます。それを見て、天心は、はじめて「楽の音が聞こえてきた」と評したそうです。
 この頃、天心は、ボストン美術館中国・日本美術部(現在のアジア・アフリカ美術部)の仕事で、海外に出ることが多く、一年ぶりに帰国したときの貴重な助言でした。
 観山の五浦時代(1906‐13年)は、彼の画業のなかで最も実りの多い時期だったといわれます。日本の古典絵画に対する素養のうえに、イギリス留学などで得た西洋的な写実表現を結びつけ、多くの画家に影響をおよぼす、装飾的な画面をつくりだしていったのです。
 毘沙門天を見ると、線によって人体の形を捉えながらも様式化せず、写実的な姿で表していることが分かります。西洋の人物表現を、日本画に溶かしこんだ成果といえるでしょう。一方、金地を活かして、藤の花やヒオウギを装飾的に表しているところは、江戸時代の琳派から学んでいます。このような装飾的な表現は、日本美術院の作家のなかでも観山がいち早く試みていた表現でした。
 さて、〈毘沙門天弁財天〉は、当時の三菱財閥を主宰していた岩崎家から松方正義(大蔵大臣や内閣総理大臣などを歴任した明治、大正期の政治家)に、金婚のお祝いとして贈られたもので、岩崎家が観山に執筆を依頼したことがわかっています。彼が試みていた装飾感は、お祝いのための絵としてふさわしいものだったのかも知れません。この作品は、観山の生前に出版された『観山作品集』(1925年)に収録され、死の翌年に開かれた遺作展(1931年 東京府美術館〔現在の東京都美術館〕)に出品されるなど、早くから代表的な位置が与えられてきました。長らく個人所蔵家のもとにありましたが、2002(平成14年)度に、徳島県立近代美術館のコレクションに加わりました。
徳島県立近代美術館ニュース No.45 Apr.2003 所蔵作品紹介
2003年3月
徳島県立近代美術館 森芳功