徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
烏鷺図
1934年
絹本着色
176.0×422.0
廣島晃甫 (1889-1951)
生地:徳島県徳島市
データベースから
廣島晃甫烏鷺図
他の文章を読む
作家の目次 日本画など分野の目次 刊行物の目次 この執筆者の文章

廣島晃甫 「烏鷺図」

森芳功

  画家は、一双の屏風を描くとき、左右の屏風を対比的に見せ、対となるように構成することがあります。廣島晃甫の〈烏鷺図〉も、そのような例と言えるのではないでしょうか。左隻(左側の屏風)に白い鳥、右隻(右側の屏風)に黒い鳥が描かれていて、明らかに対が意識されています。鳥たちは、白鷺(しらさぎ)と烏(カラス)であるのは、作品名からも分かりますが、さらによく見比べていくと、いろいろな意味をこめて表そうとした工夫が見えてきます。
 たとえば、お天気はどうでしょうか。左隻の白鷺たちは、梅雨のような雨のなかを飛んでいます。金泥のほどこされた画面が上品に輝いているので、日の光が差し込み、雨はあがろうとしているところなのでしょう。虹をくぐるように飛ぶ白鷺たちの姿も見られます。その一方、列をつくって飛ぶ右隻のカラスの群れには雨はなく、空は夕日に染まっているかのようです。
 そのように見ていくと、時刻の関係も気になってきます。カラスの飛んでいるのが日没前の空だとすれば、白鷺は、朝日のなかを雨に濡れながら羽ばたく姿と言えそうです。明るさや輝きは、朝の光を表していると見ることもできるのです。
 鳥たちのようすをもう少し観察するなら、白鷺の一群は、画面の下から左上に飛び立っていくようであり、カラスは、どれも頭を下に向け、舞い降りてくるようです。構図的にも対比を感じさせています。このようなことをまとめて考えるなら、対となっているのは、朝日とともに飛び立つ白鷺と、夕暮れどきに、ねぐらへ帰るカラスだと思えてきます。
 この一双となった屏風が意味するものを、どのように捉えたらいいのでしょうか。自然の美しさを情感豊かに表しているのは間違いありませんが、天候の移ろいや時の流れを、命の営みやその摂理とともに表したと見ることも可能かも知れません。一日のはじまりと終わり、活動と休息。あるいは生と死など、見る人によって、さまざまに解釈できるのではないでしょうか。
 この作品を描いた廣島晃甫は、徳島市に生まれました。東京美術学校(現在の東京芸術大学)で日本画を学び、版画や洋画でも時代を先取るような表現をみせた後、1919(大正8)年の第1回帝展(帝国美術院美術展覧会)と翌年の第2回帝展で特選を受賞。一躍、画壇の注目を集めました。〈烏鷺図〉を描いたのは、そこから実績を積み上げ、日本画家としての地歩を固めていた昭和の初期であり、すでに帝展の審査員を何度もつとめていました。ローマの日本美術展への出品、日独展覧会の委員となってヨーロッパへ渡るなど、旺盛に活躍していた時期でした。
 〈烏鷺図〉が発表された第三回青々会展(会場は東京美術倶楽部)への出品自体が、人気作家の証と言えるものでした。伊東深水(いとう しんすい)や山口蓬春(やまぐち ほうしゅん)、児玉希望(こだま きぼう)ら当時脚光を浴びていた6人を集めたグループ展で、いずれも六曲一双屏風の大作を出品しています。伊東深水〈麗日〉のような名品も生まれた展覧会であり、〈烏鷺図〉も、競い合って力作を発表しようとする雰囲気のなかで描かれたものだったのです。
 第三回青々会展の終了後、〈烏鷺図〉は、日本画の大コレクターとして知られた故細川力蔵氏の所蔵になったことが分かっています。細川(雅叙園)コレクションとして知られた時期もあったのですが、2006年度、徳島県立近代美術館の所蔵となりました。画家の出身県に作品が帰ったと言うこともできるでしょう。当館では、徳島県出身の代表的な日本画家として、晃甫の作品の系統的収集ができるように、こつこつと努力を重ねてきました。今回の〈烏鷺図〉の収集で、そのコレクションにも少し厚みが加わったように感じられます。

(「広島晃甫」の人名表記を「廣島晃甫」に改めました。)
徳島県立近代美術館ニュース No.61 April.2007 所蔵作品紹介
2007年4月
徳島県立近代美術館 森芳功