徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
SIA
1982年
モノタイプ 紙
35.7×50.9
一原有徳 (1910-2010)
生地:徳島県
データベースから
一原有徳SIA
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一原有徳 「SIA」

竹内利夫

 深い青一色の視界です。楕円型の波が重なっては崩れ、混沌を呈しています。あたかも人智の及ばぬ異世界を垣間見るようで、想像力を刺激します。画面には光があり、動感に満ちていて、宇宙か、気象のマクロの光景のようにも、あるいは電子顕微鏡のミクロの映像を想起させるかも知れません。
 実は、タイトルの「SIA」とは何も意味しておらず、作者はどんな物語も語りません。ただ光と闇、スピード感だけの、視覚のフィクションに私たちは迷い込んでいるのです。作者の一原は、このように強烈な現実味を感じさせる不可思議な情景を、即興的に独特の手法で描き続けました。それはモノタイプと呼ばれる版画手法です。
 50歳でデビューした遅咲きの作家、一原有徳(1910-2010年)は徳島県那賀郡に生まれました(現阿南市)。幼い頃北海道にわたり、小樽を終世の拠点とします。若き日には俳句と登山に没頭。道内のいわば名もない「未踏の頂」を走破しアルピニストとして知られました。ある日、趣味ではじめた油絵のパレットに、ペインティングナイフの不思議な痕跡を見つけたことが人生の契機となります。インクとナイフで模様を描いては紙に刷るという試行錯誤が始まりました。
 一度切りの転写による「モノタイプ版画」で注目された彼は、他にも金属板腐食の表情を活かした版画や、オブジェ制作へ手を広げ、実験的制作に人生を賭けていきます。1960年代から70年代、複製技術が文化やアートを大きく変えていった時代を背景に、「版」の可能性を暴いていく有徳は、意表をつく存在感を放ちました。
 この作品が制作された1980年代は、作家としての活動も軌道に乗り、何枚も紙を継ぐことで版サイズの制約を乗り越え、10メートルを超える大判モノタイプへ向かった時期です。この作品は小粒ですが基本となる制作の原理は同じで、彼の作品は部分の集積です。様々な想像を誘う壮大な光景も、冷徹な物質感を錯覚させる細部の積み重ねであることに、見る人は驚きを禁じえないのです。
 実のところ一原の画業全体がそのような、部分を探し求める旅のようでもありました。当館で「一原有徳・版の世界-生成するマチエール」展(1998年)に際し、13メートルに及ぶ大作を飾った時も、観覧者が作家の知らないイメージを見つけ出すことに、大変な敬意をはらい感想を聞きたがる、そんな人でした。
 かつて調査のため小樽のアトリエに通っていた時に、作家から一番良い作品はどれかとよくたずねられました。彼の実験的な制作は大変なバリエーションがあり、とても一番は決められないと窮しました。心から惚れ込める作品かどうかを胸に問うては答えたことを覚えています。この作品もそんな思い出のある一点です。インクの伸びがよく、スパークする光とうねりの次々と生まれる様子に夢中になる、作家のまなざしを追ってみているような魅力がこの作品にはあります。
 「未完成だが部分によいところが」。一原を見出した評論家、土方定一氏の言葉を、作家は胸にとめ、「一生未完成の作家」としばしば口にしていました。実際、後からきた鑑賞者はどれほど人が通り過ぎた後でさえ、さらなる未知の光景がきっと潜むこの感性の実験室に、自分をあずける幸せを実感できるのです。
徳島県立近代美術館ニュース No.107 Octobeer.2018 所蔵作品紹介
2018年10月
徳島県立近代美術館 竹内利夫