徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
学芸員の作品解説
ザリー・ファルクの肖像
1916年
石膏、着彩
36.8×22.8×19.0
1916年
石膏、着彩
36.8×22.8×19.0
ヴィルヘルム・レームブルック (1881-1919)
生地:ドイツ
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レームブルックザリー・ファルクの肖像
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この執筆者の文章
ヴィルヘルム・レームブルック 「ザリー・ファルクの肖像」
吉原美惠子
ヴィルヘルム・レームブルックは、19世紀末から20世紀初頭のドイツ近代彫刻史において、極めて重要な役割を果たした彫刻家です。レームブルックは、1881年、ドイツ北部のマイデリヒに生まれました。デュッセルドルフの美術アカデミーで彫刻を学び始め、最初はロダンやマイヨールの作品に影響を受けた作品を創っていましたが、その後、ヨーロッパ各地への旅を経て、1910年、パリに移住しました。その翌年、〈ひざまずく女〉を発表して、細長く引き伸ばされたような人体の表現を以て独自の作風を確立し、その静謐な精神世界の表現がヨーロッパにおいて認められました。1914年、第一次世界大戦の勃発によりベルリンに転じ、大戦直後の1919年、38歳で、自らその生命を絶ちました。戦争に翻弄されたその短い生涯において、レームブルックは、近代人としての魂の叫びをかたちにしようと試み続けました。それは、造形芸術が、抽象表現に傾倒しようとした時代にあって、目まぐるしい社会の変貌の中、レームブルックが最後まで人間表現にこだわった作家であろうとしたことに大きく起因しています。その作品を流れる精神には、人間の姿を真摯に見つめ、かたちとして生み出す、自らの仕事への深い自覚がうかがえることでしょう。そして、近代人として、時代の求める芸術家としての自己を模索し続けたレームブルックの精神が、現代ドイツの造形作家たちに今なお、大きな影響を与えているのです。現代ドイツの歴史的、社会的背景や文化的基盤を知る上でも、20世紀初期の当地の気風を知ることは重要です。それは、現代のドイツの優れた美術表現の多くが、二度にわたる世界大戦を経験した自国の、文化的土壌を見直すことの上に立脚しているからです。
〈ザリー・ファルクの肖像〉は、レームブルックの友人であり、熱心なコレクターであった、マンハイム出身のザロモン・ファルクをモデルとしています。通称ザリーと呼ばれた彼は、その妻であるアデーレと共に、レームブルックの才能をいち早く認め、支援した若き蒐集家でした。この作品を取り巻く雰囲気からも、穏やかで鷹揚な、育ちの良さがうかがえます。額の辺りに漂う知的な気分や、ぬくもりを湛えた、力強いまなざしの表現には、レームブルック独特の繊細さと緊張感がうかがえます。当時、ザリーは28歳。新しい時代の到来を予感することのできた、若々しく優れた知覚とそれを支える教養が醸し出されています。彼のコレクションは、1917年にザリー・ファルク彫刻財団とされた後に、21年にマンハイム市に寄贈され、これらを核として今日のマンハイム・クンストハレが成り立っています。ここは、ドゥイスブルクのレームブルック美術館と並んで、世界でも有数のレームブルック・コレクションを有する施設として知られています。
さて、〈ザリー・ファルクの肖像〉は、レームブルックの仕事の中では、地味でありながら、目が離せないものですが、現在、石膏・セメントのヴァージョンの存在が7点知られているだけです。というのも、レームブルックの作品は、第一次世界大戦の影響により、ブロンズに鋳抜かれなかった作品が多かったからで、素材の石膏は、当時の芸術を取り巻く社会の様子を伺い知ることができる重要な要素であるといえるでしょう。レームブルックは、ザリーの自宅にしばしば滞在し、ファルク夫妻の肖像を制作しています。この作品は、「レームブルックの魂の良き理解者」の肖像なのです。ザリーと向き合う私たちは、レームブルックに向けられたザリーの穏やかなまなざしと共に、作品に注がれたレームブルックの視線を感じ、レームブルックの深い悩みや葛藤に歩み寄り、その心の震えを感じることができるでしょう。
この作品はまた、当館における戦後ドイツ美術のコレクションを概観する上でも、礎となるでしょうし、国内に点在する数少ないレームブルック作品を見渡しても、作家のこの種の仕事を知ることができる希有な美術資料として、国内のレームブルック研究に厚みをもたらすものとなるに違いありません。
徳島県立近代美術館ニュース No.53 Apr.2005 所蔵作品紹介
2005年3月
徳島県立近代美術館 吉原美惠子
2005年3月
徳島県立近代美術館 吉原美惠子