徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
ヴァシリー・カンディンスキー 版画集〈響き〉5.叙情的
版画集〈響き〉5.叙情的
1911年
木版 紙
14.6×21.8
ヴァシリー・カンディンスキー (1866-1944)
生地:ロシア、モスクワ
データベースから
ヴァシリー・カンディンスキー版画集〈響き〉5.叙情的
他の文章を読む
作家の目次 日本画など分野の目次 刊行物の目次 この執筆者の文章
他のよみもの
所蔵作品選1995

ヴァシリー・カンディンスキー 「版画集〈響き〉5.叙情的」

井手迫蒼

 赤、青、黄という限られた色彩と、簡単な黒い線で構成された画面。ここには何が描かれているか、分かるでしょうか。
 この作品は、1913年出版の『響き』という詩画集の中の1枚です。『響き』は、38編の詩と56点の木版画から成る詩画集で、作者はヴァシリー・カンディンスキー(1866-1944)。具体的な対象を描くのではなく、色や形など、絵画の純粋な要素のみで表現する「抽象絵画」の先駆者とされる作家です。
 カンディンスキーは1866年、モスクワに生まれました。大学では法律や経済学を学びますが、30歳を目前にして画家になることを決意。1896年にミュンヘンに出て美術を学びます。4年ほどの修行を経て、「ファランクス」や「ミュンヘン新芸術家協会」といった芸術グループを結成し、中心メンバーとして活動した後、1911年から、フランツ・マルクらと共に「青騎士」の活動を開始します。彼らは明確な形を持った芸術グループではありませんでしたが、雑誌『青騎士』の刊行や「青騎士」展の開催を通じて、同時代以降の美術に多大な影響を与えます。そして、カンディンスキーが抽象絵画を生み出すことになるのも、まさにこの頃でした。『響き』の刊行は1913年。そこに含まれる版画は、この時期の彼が、具象から抽象に至るまでの足跡を示すものでもあります。
 カンディンスキーがこの詩画集で目指したのは、版画と詩、つまり美術と文学という異なる芸術分野を総合することでした。そのために彼は、詩では言葉の発音やリズム、版画では色彩や形態といった、純粋な要素が持つ力に着目しました。文学と美術というジャンルの枠を越えて、音やリズム、色彩、形態が共にその力を発揮することで、詩と版画とが総合され、詩画集全体が一つの「響き」を生み出すと考えたのです。この考えのもと制作された『響き』は、彼が抽象絵画に至るうえで、欠かせない作品だったといえるでしょう。
 とはいえ『響き』では、彼はまだ完全な抽象に至ってはいません。この版画でも、右から左に向けて駆ける馬と、それに乗る騎手の姿が、簡単ながらも勢いが伝わるような表現で描かれているのが見て取れます。
 「青騎士」という言葉からも垣間見えるように、「騎士(騎手)」は、カンディンスキーが生涯好んで用いたモティーフでした。馬を駆る騎手の姿は彼にとって、それまでにない新しい表現を目指して進んで行く、自分自身を投影したものでもあったといえるでしょう。また「叙情的」という言葉は、、作品において作者の内面や感情がよく表れているさまを指します。この作品に描かれた、疾走する馬と騎手の姿からは、当時のカンディンスキーの決意が感じられるかのようです。

徳島県立近代美術館ニュース No.138 July.2026 所蔵作品紹介
2026年7月8日
徳島県立近代美術館 井手迫蒼