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おおくらつるひこおうふさいしょうぞう 大倉鶴彦翁夫妻肖像
鶴彦・大倉喜八郎と妻徳子の肖像。旧大倉財閥を一代で築いた明治・大正期の実業家・大倉喜八郎(1837−1927)の卒寿を記念して制作された夫妻の像。本像は光雲と高村光太郎の共作になると伝えられる。光太郎は肖像彫刻を得意とし、大倉喜八郎は本作に先立つ大正15年(1926)にも光太郎に自身の頭像《大倉喜八郎の首》制作を依頼している。光太郎は生計を維持するために、光雲が注文を受けた仕事を手伝うことがあり、本像では光太郎が制作した胸像を基に光雲が全身像を木彫で制作したという逸話が残されている。光雲による数少ない肖像彫刻の作例。(「高村光雲とその時代展」図録 2002年)
カテゴリー:作品
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高村光太郎とは?【 作家名 】 1883年高村光雲の長男として、東京に生まれる。1902年東京美術学校彫刻科を卒業し、研究科に残り、05年には西洋画科に移る。1906年渡米し、アートスチューデンツ・リーグに学ぶ。このころ荻原守衛を知る。1909年にはロンドン、パリを経て帰国し、岸田劉生らとフューザン会を結成する。1914年長沼智恵子と結婚。このころより彫刻に専念する。1916年「ロダンの言葉」翻訳刊行。1945年空襲によりアトリエを焼失し、岩手県花巻に疎開する。1947年帝国美術院会員に推挙されるが辞退。1953年記念碑「みちのく」が十和田湖畔に完成する。同年日本芸術院会員に推挙されるが辞退。1956年東京の中西利雄のアトリエで死去。彫刻家、画家、詩人であり、また評論家としても活躍した光太郎は、西洋の美術理論・思想を翻訳して日本に紹介し、日本の近代美術の理論面を支える役割を果たした。ロダンが制作した数多くの手や腕が完成作のための一部分であったのに対し、光太郎はそれだけで完結した作品とみなしていた。「手」は仏像の手印に興味を持っていたころの作品で、自分の手を見ながら作ったといわれている。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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