ぐるぐるアートワード
データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。
ぐるぐるもくじ


ハチョンユン



ハトンチョル



灰色の光景



廃船



ハイド



ハインジンバンデデザイン



ハウプト



破壊するべきオブジェ/破壊できないオブジェ



萩谷巌



萩原英雄



白衣を纏える



薄雪越冬



白熱灯「エレクトリシーヌ」−赤と白



博物誌



白龍図







箱根の秋



箱は空にかえってゆく



硲伊之助






<前 (1/34ページ) 次>

●もくじのさくいん

    

    

記事カテゴリ

 すべて

 作家(1701)

 作品(1851)

 美術用語(163)

 その他(1)


かるめん

かるめん

作家名:池田満寿夫
制作年:1960年刊
技 法:エッチング 紙(10点)、油彩(表紙)、テキスト
池田満寿夫著。池田満寿夫が第二回東京国際版画ビエンナーレ展で文部大臣賞を受け、一躍注目されるようになったのは一九六〇年。ニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展が開催されたのが一九六五年。彼の豆本(雛絵本)が集中的に作られたのは、ほぼこの時期に当たる。初めての豆本は江戸川乱歩著の『屋根裏の散歩者』。乱歩の実弟である平井通(真珠社)からの依頼である。一九五八年の夏のことである。続く『サロメ』や『かるめん』は文章も池田が書いた。シャンソン風の詩である。売れ行きが悪いため、『かるめん』や『まのん』の表紙には油絵が描かれている。『たまる』では木版も試みた。一九六〇年の初めに『かるめん』が出来上がるとすぐに、池田は、詩人で小説家となる富岡多恵子と住み始めた。彼が脚光を浴びるのはその年の秋。まだまだ貧乏絵描きの池田。狭いアパートの一室で、身を寄せ合うように生活し始めた二人は、豆本制作も共同で行う。『たまる』と『じえすちーぬ』の文章は富岡が書いた。富岡は刷りから彩色、本のケース作りまで手伝う。そのころの生活をモチーフにした小説を、後に富岡は書いている(『壺中庵異聞』文藝春秋社 一九七四年)。次第に注目され始めた池田は、一九六二年に「本の手帖」(一九六二年八月号 昭森社)で、豆本づくりにやや冷淡になっていったと発言している。また同時に、百冊まで作りたいという平井の熱意に、困惑しながらも応えようとする心意気も感じさせる。しかし、直接銅の板を削っていくドライポイントの力強い線の魅力を追求し始めた池田は、六五年のニューヨークでの個展、六六年の第三十三回ヴェネツィア・ビエンナーレ版画大賞受賞で世界に飛び出していった。以後は、一九七六年にメゾチントによる『かぐやひめ』(杉山正樹著 吾八プレス刊)が出されたのみである。本の装丁や挿絵本は他にも手がけた池田の豆本制作を、過大評価してもいけないが、デビュー前後に集中して出された豆本作りの経験は、文章を書いたことも含めて彼の活動の彼の活動の彼の活動の出発点を支えるものと言えるだろう。一九六三年に出された、暗黒舞踏結成八周年記念の小冊子『あんま』は若干性格を異にするが、それを加えて計十一冊の豆本が出版された。(「本と美術−20世紀の挿絵本からアーティスツ・ブックスまで」図録 2002年/一部割愛)


カテゴリー:作品
  いまクリックまたは、検索したキーワードの解説

廣島晃甫とは?【 作家名 】

1889年徳島県徳島市に生まれる。1951年没する。本名は新太郎。香川県立工芸学校(現・香川県立高松工芸高等学校)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科を卒業。1916年、長谷川潔、永瀬義郎と日本版画倶楽部を結成。1919年の第1回帝展(帝国美術院展)と翌年の第2回帝展では日本画が連続して特選を受賞し、一躍画壇の注目を集める。その後も、帝展、新文展(文部省美術展)、戦後の日展(日本美術展)に出品し活躍。日独美術展覧会委員、帝展や新文展の審査員なども歴任した。大正期は浪漫的香りある人物表現を行うが、次第に花鳥画に重点を移していった。

  画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。

キーワード検索




けんさくけっか

キーワード

廣島晃甫

キーワードを含む記事
1件見つかりました。

  萬鉄五郎


<前   次>

徳島県立近代美術館2006