| 説明 |
1962-3年頃から、清原はしばしば体の不調を日記に記している。1965年には妻芳子が亡くなり、67年には次男淳二が発病して病院で闘病生活を送るようになる。これらの心労が清原の老いを加速していったと思われる。
この時期、ほとんど唯一といってもいい発表の場としていたのは光風会展で、ここには亡くなるまで毎年かかさず出品を続けている。1967年には生前に自分の「遺作展」を見たいという清原の希望をかなえるため、子供たちが個展を開いている。
この時期の作品は、色彩は次第におだやかになり、身体上の制約もあってか、窓からの風景や自宅の庭、静物など身近なものを画題としている。美術界の趨勢には無縁で、中には恬淡とした油彩による文人画ともいうべき境地を見せているものもある。
「菜の花」は、清原の求めに応えて家族が買い求めてきた切り花をアトリエに並べて描いた。家族に「菜の花や月は東に日は西に」という蕪村の句の一節を思い浮かべて描いたとも、郷里の川原に咲き乱れる菜の花を思い出して描いたとも語ったという。
自宅の庭を描いた「早春」は、亡くなった年の光風会展に出品された。この頃になるとほとんど筆をとることもできなかったらしく、日記によると旧作を出品したようだ。 |