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パウル・クレー 〈子供と伯母〉 1937年 徳島県立近代美術館蔵※画像の無断コピーは、法律で禁じられています。 |
はじめに
コレクション+αで楽しむシリーズは、当館の所蔵作品を中心にして、そこにひと工夫加え、幅広い視点で美術を楽しもうという展覧会です。音楽に引き続いて、文学との連携を試みます。 ただし、今回は、前の音楽とは、工夫の加え方が少々違います。この展覧会では、文学に関係のある作品が展示されるわけではありません。文学作品である、短歌そのものが、絵画や彫刻と一緒に展示されます。
音楽から引き続いて
文学との連携といいながら、この展覧会は、実は音楽に関係したことから発想されたものなのです。キーワードは「演奏」です。 美術の場合、作品を鑑賞する場合は、鑑賞者は作者が作品として示した世界と直に接することになります。音楽の場合、作者が楽譜という形で示した世界を、演奏者が具体的な音の連なりとしたものに接することになります。作品と鑑賞者の間に、演奏という行為が入るわけです。 ところで、この演奏ということについて、指揮者の福永陽一郎さんは、「大中恩の合唱曲と私」という文章のなかで、「私が指揮者として、作曲者自身より、より作品の本質に近づいた再現をしていると自認し」と述べています(*1)。これは、作った本人より、他人のほうが作品の本質に近い世界を鑑賞者に示しているということで、作品の鑑賞を考える上で、たいへん興味深い発言です。
文学を通して
また、作曲家の三善晃さんは、谷川俊太郎さんの詩に自身が作曲した「〈クレーの絵本 第1集〉」という合唱曲に関して「谷川俊太郎さんの詩を透視してポール・クレーの絵を見ると違った絵に見えた」と書いています(*2)。 谷川さんはクレーの絵をもとに詩を作っているわけですから、演奏者の立場にあるといえます。この場合、詩人という創造者である谷川さんと演奏者である福永さんを同様に考えることはできませんが、谷川さんの演奏(=詩)により、三善さんが思っていたのとは違ったクレーの絵画が持つある本質が浮かび上がったといえます。 美術作品を楽譜とすれば、そこから作られた詩は演奏であり、演奏により、鑑賞者が自分だけでは気がつかなかった作品の本質が新たに示されたということでしょう。
再び音楽と関連して
このように、作品と鑑賞者の間に、もう一つの要素が加わることで、新たな世界が広がることを期待したのが、この展覧会です。 今回は、もう一つの要素として、文学の中でも短歌を選びました。日本文学の中でも和歌として長い歴史的背景があり、短詩型文学として凝縮された世界を持つこともさることながら、「うた」という音楽との関連性を感じさせる音の響きから選んだところもあります。 当館の所蔵作品をもとに、県内外の歌人が詠んだ短歌は、コレクションを楽譜とした演奏です。美術作品と共に展示される、三十一文字の言葉は、どのような世界を新たに浮かび上がらせてくれるのでしょうか。 また、展覧会の関連行事として、朗読会も予定しています。これは短歌を朗読するのではなく、美術作品をもとに朗読者がそれぞれ自由に選んだ文学作品を、その美術作品の前で朗読する催しです。これはまさに、美術を楽譜とした音(言葉)による演奏そのものといえるでしょう。
最後に
作曲家の伊福部昭さんの「鑑賞することもまた立派な芸術であることを忘れたくないものです」(*3)という言葉を紹介しておきましょう。 美術作品をもとにした短歌は、歌人による演奏であり、美術作品に対するひとつの世界の提示であり、ひとつの鑑賞です。歌人同様、この展覧会を訪れた方々は、それぞれが美術作品をもとに演奏を行い、それぞれの世界を思い描くことができるはずです。それぞれの鑑賞があるに違いありません。 展覧会場で、美術作品と直接対峙するみなさんによって、美術作品から、さまざまな新しい世界が生み出されることでしょう。短歌をきっかけに、展覧会を訪れた方々によって、積極的な鑑賞が繰り広げられることを願っています。
(専門学芸員 安達一樹) (徳島県立近代美術館ニュース No.55 掲載)
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