徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
ブラインドを降す男
1959年
油彩 キャンバス
99.2×73.3
鳥海青児 (1902-72)
生地:神奈川県平塚市
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鳥海青児ブラインドを降す男
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徳島新聞 美術へのいざない 所蔵作品選1995

鳥海青児 「ブラインドを降す男」

安達一樹

 この作品を見てまず気になるは、人の姿、特に胸を中心とした部分の絵の具の盛り上がりでしよう。それとも光沢の抑えられた、がさついた感じの画面でしょうか。鳥海の作品は、このような厚塗りのマチエールを特徴としています。
 マチエールとは、材料、材質、素材を意味する言葉で、なめらかさとかごつごつした感じといった素材の物質感や、素材によって作り出された作品の肌合いなどのことをいいます。「私の絵の場合、マチエールは実に重要な部分をしめている。厚塗りをすることによって、その絵が強く視覚にうったえるという、大事な要素をみのがしておくことはできないからだ」*という鳥海は、時間をかけて、絵の具を何度も塗り重ねたり削ったりして、重厚感のある画面を作り上げています。
 鳥海は、1902年に現在の神奈川県平塚市に生まれました。関西大学在学中の1924年第2回春陽会展に初入選し、画壇にデビューします。1930年に渡欧、33年まで滞在し、その間にアルジェリアやスペインなどを旅行し、ゴヤやレンブラントから強い影響を受けました。帰国後は、暗く渋い色調による物質感の強い作品を発表、1937年頃には多くの追従者が現れたといいます。1934年頃からの作品では、光沢を抑えた画面のマチエールをつくるために絵の具に砂や石を混ぜたりしています。また、日本の古美術に深い関心を寄せ、1939年頃から収集を始めています。
 戦後は、1957年のヨーロッパ再訪の他、エジプトや中東、中南米などへの訪問により、作品の色彩を明るくし、形態が単純化するなどの変化を見せました。また、絵の具の油を抜いたり、晩年には絵の具にクレパスの粉を混ぜるなど、72年に亡くなるまで、マチエールにこだわった作品を発表し続けました。
 なぜ、このようにマチエールにこだわったのか、その理由は色にありました。
 鳥海は「問題はやつぱり色だと思うんだ。色と離してマチエールを考えたりしても駄目なんだ。あるマチエールを獲得したときはじめてこつちの思つていた色が出る…ある色を出すために、どうしても必要な塗り方をみつけて行く、そこに正しいマチエールが生まれる…色を追求しているうちに…そのときのマチエールが成り立つて行く…いい加減な色で満足していると、マチエールもきたないし、堅確にならない」**といっています。
 また、厚塗りについて、「私の絵は、いわば下地の積み重ねとその過程で生れた絵具のニュアンスによってできあがる。…乾いてはのせ、乾いてはのせを繰り返すうちに、全てをプラスとして描いていくというわけだ。そして最後に、やはり、鳥海青児の色感をのこすことが私の絵のミソである。…だんだんに画面がかためられ、フォルムが確定し、色彩が自分のものとなってくると、私のこのみで、マットな画面に近づいてゆく。…がんこな画面を作るために下地は油でかためる。だんだん上にかさねてゆく絵具は油の量をへらし、…最後には絵具をねってある油までぬいてから使っている。…マットな画面にするためでも、下がしつかりかたまっていないとソリッドな画面は生れない。」*といっています。このように、鳥海は、自分の色を追求することから、このようなマチエールに至ったことがわかります。
*「技法問答 下地の積み重ねと絵具のニュアンス」美術手帖1958年10月号
**「厚塗りのマチエール」増刊アトリエNo.11 1955年3月

徳島県立近代美術館ニュース No.60 Jan.2007 所蔵作品紹介
2007年1月
徳島県立近代美術館 安達一樹