徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
山下菊二 死んだ人がわたしを産んでくれた(昭和40年7月27日母死す)
死んだ人がわたしを産んでくれた(昭和40年7月27日母死す)
1966年
油彩 合板
88.2×173.5
山下菊二 (1919-86)
生地:徳島県三好郡
データベースから
山下菊二死んだ人がわたしを産んでくれた(昭和40年7月27日母死す)
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山下菊二 「死んだ人がわたしを産んでくれた(昭和40年7月27日母死す)」

江川佳秀

 このたび県立近代美術館では、山下菊二の油彩画やコラージュ、版画、素描など合計57点を収蔵することができました。同時にご遺族のご理解を得て、アトリエに遺されていた作品や蔵書、制作のために山下が集めた資料などの調査に着手しました。県立近代美術館では、山下の画業を概観できるコレクションを持つだけでなく、山下の制作の背景を知ることができるさまざまなデータを蓄積しておきたいと考えているのです。
 県立近代美術館では1996年に「没後10年山下菊二展」を開催しています。ですから山下の名前をご記憶の方も少なくないと思います。山下は1919(大正8)年に徳島県辻町(現在の井川町)に生まれ、香川県立工芸学校を卒業しました。その後画家を志して上京し、1940(昭和15)年に美術文化展に初入選、1944(昭和19)年には美術文化賞を受賞しました。2度の兵役を経て、戦後は日本美術会や前衛美術会、从会(ひとひとかい)の結成に参加し、土俗的ともいえる日本の伝統的なイメージとシュールレアリスムの手法を用いて、政治的、社会的なメッセージを帯びた作品を発表しました。既成の画壇の権威とは無縁な場所で、前衛的な表現を追求し続けた作家です。
 生前から山下の作品は一部の美術関係者の間で熱心な支持を受けていましたが、近年になってとみに評価が高まっています。国内外で開かれる戦後の日本美術を振り返る展覧会には、必ずといっていいほど山下の作品が紹介されています。戦後日本を代表する作家のひとりといって間違いないでしょう。
 図版の作品も、今回収蔵することができた作品のひとつです。分かりにくいタイトルですが、「死んだ人」とは山下の母親のことです。自分を生んでくれた母親への憧憬と感謝の意味が込められています。母親の1周忌に際して、追善供養として描かれました。画面の右下には「貞行院順德大姉に捧ぐ 昭和41年1月 山下菊二」とあります。貞行院順德大姉が母親の戒名です。
 画面に繰り広げられている世界も、ちょっと分かりにくい世界です。魚や鳥を思わせる異形の人たちは、すでにこの世を去った山下の家族たちです。画面左で白馬の脇に立つ人物が父親、中央に座り込んだ人物が母親。兄弟たちは沼底の水草や、地底の地層を思わせる襞の中に溶け込んでいます。山下が幼い頃に聞かされた黄泉の国をイメージしているのでしょう。山下自身は画面右に赤い人物として描かれています。生前に自分の墓碑を建立するとき、赤い字で名前を刻む習慣にならったのだと思われます。
 山下がこのように古い伝承や迷信を作品にした例は、珍しいことではありません。今回収蔵した作品の中には、〈女、鐘の下に立てば、まがさす〉(1961年)や〈梁の真下で寝ると襲はれる〉(1961年)のように、郷里の伝承をそのまま題名とした作品もあります。
 山下がこのような世界に目を向けるようになった発端は、自らの戦争体験にあったようです。山下によると、1939年に召集され従軍した中国南部の戦線で筆舌に尽くし難い残虐行為を目撃し、山下自身も加担することを強いられたといいます。戦地では上官の命令に逆らえるはずもなかったのです。しかし戦後になって、ごくわずかながら命令を拒否した兵士がいたことを知り、なぜ自分にそれができなかったのかと問い詰めていきました。そして戦争という極限状況に人間を追いやった背景には、古い因襲や伝統に秩序立てられた日本社会の前近代的な性質があり、戦場で異議を唱えられなかった自分も、本心とは裏はらに「万歳」という言葉で息子を戦地に送り出した両親も、そのような前近代的な社会の精神に支配されていたのだと考えるようになりました。
 その後、山下は戦争の問題を皮切りに、従軍慰安婦や部落差別などの問題に関心を広げ、作品を通じて問題を訴え続けていきました。戦争の問題と同様に、その背景には日本社会の前近代的な性格が横たわっていると考えたのです。そしてそこには、日本社会の性質を象徴するものとして、幼い頃に見聞きした伝承や因襲に連なるイメージが登場しています。
 この作品は、直接、社会的、政治的な問題を扱った作品ではありません。むしろ山下の個人的な想い出につながるプライベートな世界です。しかし山下が生まれ育った家族の記憶、幼い頃に聞かされた伝承の世界を描き出したものであり、その意味で山下作品の原点を指し示す作品といえるでしょう。
徳島県立近代美術館ニュース No.49 Apr.2004 所蔵作品紹介
2004年3月
徳島県立近代美術館 江川佳秀