徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
男女
1963年
紙本着色
181.6×259.3
中村正義 (1924-77)
生地:愛知県
データベースから
中村正義男女
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中村正義 「男女」

森芳功

 第二次世界大戦後、日本画をめぐる状況は、大きく変わります。戦前の日本画を支えていた日本主義が批判され、欧米の新しい芸術観が怒濤(どとう)のように流入してきます。日本画は時の移りかわりに応じきれないで、ほろびてしまう、という意見もでるほど混迷した状況に置かれたのです。戦後の日本画は、そのような困難のなかでも日本画の可能性を信じて新しい表現を模索した作家たちによってつくられていきました。戦後も1950年ごろから日本画界に生気がよみがえりはじめます。1948年に東京と京都の中堅作家によって結成された創造美術協会が一つのきっかけとなります。封建的な画壇のありかたに抵抗し自由な表現を求め、戦後の新しい時代の息吹を画面に定着していきました。
 また、同じ1948年に、京都の若手作家によって結成され、日本画そのものを否定するような実験的な表現をおこなったパンリアル美術協会も忘れることはできません。いずれも、近代以後の日本画に対する根本的な問いかけがあったのです。今回紹介する中村正義(なかむら・まさよし)も、彼らと同じ戦後の日本画の混乱期に模索し、日本画のありかたを根本から問い続けた作家です。
 彼は、終戦の翌年、22歳で日本美術展覧会(日展)に初入選した後、数年で特選をとり、1960年には35歳の若さで審査員にあげられます。年功序列のきびしいこの展覧会にあっては異例なことで「日展の型破り」といわれます。しかし翌1961年、この地位を捨て、日展を離れてしまいます。彼は、画壇の封建的なありかたを批判し、日本画の革新を独自の道で進めようとしたのです。
 日展を離れた2年後に描かれた「男女」(県立近代美術館蔵)という作品があります。私たちが、日本画に対して持っている先入観を打ち破るような強い表現といえるのではないでしょうか。
 人物の形が極端に変形されているだけでなく、強烈な色彩が激しい筆づかいで描かれています。また、岩絵の具が何層にもわたって描き重ねられることで、重量感ある絵肌がつくられています。
 日本画は、平板な風俗描写や装飾性が批判され、創造性の弱さを指摘されることがあります。彼は画壇の保守的な因習によって、そのような様式が受け継がれていることに反発したのです。強烈な色彩と奔放なタッチは、画壇の因習を破り新しい時代の日本画を生みだそうとした彼の挑戦の姿の表れといってもいいでしょう。
徳島新聞 県立近代美術館 50
1991年9月18日
徳島県立近代美術館 森芳功