徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
穢土
1985年
岩彩、テンペラ キャンバス
190.0×500.0
小嶋悠司 (1944-88)
生地:京都府
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小嶋悠司穢土
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徳島新聞連載1990-91

小嶋悠司 「穢土」

森芳功

 戦後の日本画界に大きな足跡を残した小嶋悠司(1944-2016年)が、今年6月に亡くなりました。72歳でした。当館は彼の大作〈穢土〉と人物デッサンを所蔵しており、秋に開く所蔵作品展「特集2 戦後日本画の人間表現」で展示します。その機会に彼の作品と業績を改めて振り返ってみようと思います。
 小嶋悠司は1944年京都市生まれ。実家が東寺(教王護国寺)に近く、平安の密教仏が立体曼荼羅をつくる講堂など、境内を自分の庭のようにして育ったといいます。成長し、京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)に学び、専攻科を修了。新制作協会展で活躍し、同協会の日本画部が創画会に改組されたとき、会員として結成に参加しました。京都市立芸術大学教授、創画会副理事長などを歴任し、芸術選奨文部科学大臣賞なども受賞しています。
 彼は、戦争や自然破壊、幼児の殺害など、地獄のような社会の現実から目をそむけず、それらを凝視するようにして描き続けました。その代表的シリーズが「穢土」であり、なかでも本作は最大規模のスケールをもつ作品といえます。
 サイズは縦が2メートル弱、横が5メートル。重厚な画面で、作品の前に立つとその迫力に圧倒される思いがします。岩絵具の粒子による荒々しい絵肌、暗さのなかで仄かな光に照らされる不定型な形。よく見ると頭がなく骨の浮き出た胴体やうごめく動物の姿、横たわる小さな子どもなども見出されます。そこには、仏教でいう苦しみに満ちた現世、人間の住むこの世を指す「穢土」のイメージが表されているのです。
 描かれたのは今から30年ほど前の1985年ですが、地獄と化した人間社会の悲劇は今も無くなることはなく、痛ましい事件は世界各地でそして日本で繰り返し起こっています。多くの人は、報道で悲劇的ニュースに接しても常に真正面から向き合うことはできず、それぞれが日々の暮らしに帰って行かざるを得ません。しかしこの作品の前に立つと、世界の現実に引き戻され、時代や人間について考えさせられるようになります。ここには、観る者に内省を促し、そのような自身と社会との関係を問い直させようとする力が込められているのです。
肋骨の浮き出た胴体などからは、肉体や精神が傷つけられ、社会に憤らざるをえない人たちやその家族への想いが重ねられています。暗い色調の重々しい画面ですが、「ぼくの、首のない、手のない、足のない・・・人間像-肉体像、しかしその身体には血が通い、生きている」(1)という言葉を手がかりにすれば、人間性の回復への願いを読み取ることもできるでしょう。
 小嶋は、密教の曼荼羅やヨーロッパ旅行で見たイタリアのフレスコ画を、「凄い精神力で、信仰心で、念じながら、生命をかけて描いたものに他ならない」(2)と述べています。彼の絵にも、命がけで描く精神が受け継がれているのは間違いありません。
 また、尊敬する作家として彼は、入江波光(1887-1948年)の名を挙げています。大正を代表した日本画団体、国画創作協会の解散後、潔く在野で生きた波光は、「自己の生活感情のなかで描いてこられた人であり、生き方の清い人」(3)だったといいます。二人の画風には大きな違いがありますが、画家として筋を通した生き方に通じるものを感じます。このことも、小嶋の画業をふり返るときに忘れてはならない点でしよう。
 現実を凝視し人間性の回復を求めた小嶋の表現と生き方。それは、人の世から地獄のように悲惨な出来事や争いがなくなる未来の日まで、日本絵画の古典の一つとして人々に刺激を与え続けていくのだと思います。


(1) 小嶋悠司「画家のことば抄」『みづゑ』826号、美術出版社、1974年1月、p.48
(2) 前掲書
(3)「小嶋悠司展」パンフレット、ギャラリー戸村、1999年6月

徳島県立近代美術館ニュース No.99 October.2016 所蔵作品紹介
2016年10月
徳島県立近代美術館 森芳功