徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
五柳先生
大正初期
絹本着色 屏風(六曲一双)
各159.5×351.0
橋本関雪 (1883-1945)
生地:兵庫県
データベースから
橋本関雪五柳先生
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橋本関雪 「五柳先生」

森芳功

 華やかな金地の画面に、中国の古い服装をした人たちが表されています。対となった屏風の左側には、琴をもつ従者を従えたどこか気品ただよう人物が、もう一方の屏風には、うやうやしくお辞儀をする、ひとくせありそうな表情の人がいます。その後ろでは、二人の男が大きな甕(かめ)を運びこんでいます。このなかで主人公といえるのは、左側の屏風の中央に描かれ、他の人たちの視線を集めている人物でしょう。それが、作品のタイトルとなっている五柳先生(ごりゅうせんせい)なのです。
 五柳先生は、貧しくても栄利を求めず、何ものにも縛られることなく日々の生活をおくる人として、六朝時代の詩人、陶淵明(とうえんめい 365-427年)の「五柳先生伝」に記されています。理想像としてつくりだされた人物だったのですが、後世の人々は、長く五柳先生と淵明を重ね合わせるように解釈してきました。橋本関雪(はしもと かんせつ 1883-1945年)が描いた作品〈五柳先生〉も、その解釈に従っています。
 二人を重ねようとする見方は確かに魅力的です。官僚をやめ地方の村で静かに暮らす淵明のもとに宮廷から使者がきて、官職に戻るよう求められたものの淵明は断ります。敵対者を次々に殺害し権力を固めようとしていた皇帝の政治的なたくらみを見抜いたからでした。関雪の表したのは、そのクライマックスともいうべき一場面です。右の屏風に描かれているのは、使者としてやってきた地方長官であり、大きな甕は、酒好きな淵明を陥れようとするために運ばせたお酒だったのです。このお話は、『宋書』(そうじょ)に伝えられた淵明の伝記にあり、「五柳先生伝」にはでてきません。しかし、二人の姿は似ているのです。関雪は、淵明が自分の理想とする生き方を「五柳先生伝」に映したとする解釈にもとづいて、象徴的な五本の柳の木とともに先生を描いています。
 橋本関雪(幼名は成常、後に関一)は、現在の神戸市に生まれました。父親は漢学者で、漢文学にとどまらず、西洋の書物を中国語に翻訳して出版するなど、幅広く活躍をした研究者だったといわれます。漢詩が子守歌がわりだったほど、関雪は、幼いときから中国の古典に親しみ、それが自身にとって切っても切れないものになっていったと思われます。六曲一双の屏風に展開する、人々の心理まで表した表現は、生い立ちによる土壌なしには生まれなかったといえるでしょう。
 関雪の絵画修行は、地元で四条派という写生を大切にする表現を学ぶところからはじまり、次いで京都の大家、竹内栖鳳(たけうち せいほう)に師事します。しかし、自分が本来もっているものと四条派や栖鳳の画風との間に隔たりを感じていたようです。学んだ表現では、中国的な素養がうまく生かせなかったのです。模索を重ねた努力が成果を見せはじめるのは、大正に入る頃からで、とりわけ大正2年(1913年)以降、しばしば中国に渡り、漢詩や歴史の舞台となった風景に触れたことも転機となっています。〈五柳先生〉は、そのように自己の方向を見出そうとしていた時期に描かれた作品なのです。
 画面をくわしく見ていくと、金地を生かした装飾性、水墨の筆を用いた表現、写生をおろそかにせず捉えた人物表現など、さまざまな要素を取り入れていることがわかります。同じ時期の横山大観など日本美術院の作家たちに通じる方向ですが、関雪の画業のなかで大事だったのは、京都の伝統であった四条派の枠を越え、中国絵画を含む多様な要素を取り入れることで、表現が自らの素養とかみあうようになった点でしょう。
 さて、その後の関雪は、文展(文部省美術展覧会)で受賞を重ね、帝室技芸員や帝国美術院会員の地位を得るものの、師の栖鳳と不和となるなど、画壇のうえでは孤独であったといわれています。彼の内部では、孤高に生きようとした五柳先生、陶淵明の姿は、画業のなかでの意味を越えて長くこだましていたのかも知れません。
徳島県立近代美術館ニュース No.43 Oct.2002 所蔵作品紹介
2002年9月
徳島県立近代美術館 森芳功