徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
学芸員の作品解説
韓信堪忍図
1871年
紙本着色 屏風(二曲一双)
各153.8×171.4
1871年
紙本着色 屏風(二曲一双)
各153.8×171.4
塩川文麟 (1808-77)
生地:京都
生地:京都
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塩川文麟韓信堪忍図
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この執筆者の文章
塩川文麟 「韓信堪忍図」
森芳功
一対(一双)となった屏風の右側に、男の股下をくぐろうとする人が描かれています。両足を広げて立つ男は、目をつりあげ、「さあ、くぐってみろ」と言わんばかりです。それを見る見物人は、無情にも駆け寄って指を指したり、はやしたてたりしています。そのなかで、人々の嘲笑をあび地面をはいつくばっている人物こそ、この絵の「主人公」、韓信(かんしん)です。韓信は、漢の中国統一に大きな役割をはたした武将ですが、ここに描かれているのは、彼の青年時代、仕官の口がなく日々の食事にも苦労していたときのお話です。街の乱暴者に、股をくぐらされるはずかしめを受けながら、よく耐えたことが、『史記』という歴史書に書かれています。そのことから「韓信の股潜り(またくぐり)」は、「大望をもつ者は、目先のつまらないことで争ったりしない」という教えを示す言葉になりました。
このような「韓信堪忍図」、あるいは「韓信股潜図(またくぐりず)」など韓信を題材とした作品は、日本でも、江戸時代から明治時代にかけて、しばしば描かれています*。中国文化にあこがれた南画家(文人画家)などによる屏風や掛軸だけでなく、神社への奉納額、だんじりの刺繍幕なども残されていることから、当時の人々には、比較的知られた題材だったと言えるかもしれません。「いろはかるた」にも韓信は登場します。
本館所蔵の〈韓信堪忍図〉は、塩川文麟(しおかわ ぶんりん 1808-77)によるものです。文麟は、幕末に平安四名家の一人といわれ、1877(明治10)年に70歳で亡くなるまで、京都画壇のリーダーとして活躍。写生を大切にしながらも、そこに南画の味わいなどを加えた四条派の流れを受け継いだ人でした。これは、制作年の書き込みにより、彼が明治初期にどのような人物表現をしたのかを知るいい手がかりが得られる作品です。
韓信の姿を見てください。たとえば左右の足の位置や形には、スケッチを重ねて描いたような正確さがありますし、感情を抑えて男の股をくぐろうとしている韓信の顔も、濃淡と淡く細い線でていねいに表されています。一方、左側の屏風(左隻)には、筆数をできるだけ少なくする手法で、滑稽さを強調した人物が描かれています。写生と南画に見られる雰囲気が混じり合っているのです。もちろん、前の時代から受けついでいるところも少なくないのですが、ここでは韓信の描写に現実感が増していることに注目したいと思います。四条派の伝統を受け継ぎながら、新しい時代に対応させようとする模索を見ることができるのです。
文麟は、幕末から明治にかけて如雲社(じょうんしゃ)という団体で、京都の画家たちのまとまりをつくろうとした他、次の時代を担う弟子たちも育てました。〈韓信堪忍図〉を描いた年に入門した幸野楳嶺(こうの ばいれい)が、文麟の後を引き継いで新しい表現に取り組み、その楳嶺に学んだ竹内栖鳳(たけうち せいほう)の世代になって、大きな成果がもたらされます。四条派は、近代の京都画壇にとって本流と言える働きをしたわけですが、それも文麟の活躍や模索があったからだと言えるのかもしれません。
さて、大家として認められる存在となった文麟は、韓信の股くぐりをどのような思いで描いたのでしょうか。倒幕の運動が盛んな頃、制作を続けるためにあえて京都を離れ、近江(現在の滋賀県)で過ごした我慢の時期を思い出していたのでしょうか。先行きのわからない時代に、地道な努力の大切さを説いた、弟子たちに対するエールだったのでしょうか。〈韓信堪忍図〉は、幕末と明治を結んで、見る人の想像をさまざまにさそっています。
* 江戸時代の後期から明治にかけて、曾我蕭白、小田海僊、渡辺崋山、大庭学僊、狩野芳崖、富岡鉄斎なども描いていたようです。股くぐりの場面ではありませんが、文麟がよく作品から学んだという蕪村にも、韓信を描いたものがあります。
画面の文字と印は次のとおりです。右隻画面右上に「明治辛未嘉平月■/木佛画房塩文麟作」。白文方印「塩川文■印信」、朱文方印「木佛小漁」。左隻画面左下に「文麟」。白文方印「塩川文■印信」、朱文方印「子温號可竹斎」。(■は表記できない漢字)
徳島県立近代美術館ニュース No.54 Jul.2005 所蔵作品紹介
2005年6月
徳島県立近代美術館 森芳功
2005年6月
徳島県立近代美術館 森芳功