徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
呪術者
1961年
陶彫
58.0×68.5×23.0
辻晉堂 (1910-81)
生地:鳥取県
データベースから
辻晉堂呪術者
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辻晉堂 「呪術者」

安達一樹

 この作品は、所蔵作品展94-II(二十三日から八月二十一日まで)で展示室二にたった一点だけ展示されます。この展示は、展示室一で開催中の「彫刻との対話」の一環となっています。それなら、そちらで展示すべきだと思われるかもしれません。もちろんそうしてもよかったのです。陶彫というのは、陶すなわち焼き物でつくった彫刻のことですから、たとえば、展示室一に展示してある木内克のテラコッタの作品と素材的には同類のものです。
 それをなぜ分けたか。理由は簡単です。作者の辻が「私は彫刻をすててしまつた心算である。今私の作るものが、現在の日本美術の状況の中で『彫刻』と認められてゐるといふやうなふうには少しも思つてゐないし、認めてもらはねば困るといふわけでもない。では『陶藝』という部門に入れられるのをのぞむのかと云へば、それはゴメンである。私は陶器は作らないのだから全く仕事の種類がちがふ。(中略)力み返つて彫刻だ藝術だと云ひたてる必要はない」といっているからです。彫刻でも陶芸でもない。それでは何か。じっくり向かい合って考えていただきたいと思います。手がかりは、ありません。呪術者という題名がつけられていますが、彼は、「まことにタイトルとは、無いと困るし、あつたからといつて直接作品の説明ではないし、意味はあるのだけれど關係ないと云へば云へるし、難しい」などといってくれます。
 いったい、どうすればいいのか。とことん彼の言葉を手引としましょう。「臨済録に、向外作工夫総是癡頑漢。徐且随処作主立処皆真、とある。これは仏道だけのことではない。文化的植民地的劣等感が骨の髄まで滲み込んでいるから、外国のものを有難がったり模倣したりする癖がつく。若人求仏是人失仏。若人求道是人失道。外に向かって求めるということは馬鹿のすることで求めなくても具わっている。『人もし、外国の有名な作品を無闇に感心し、それを何とかして自分のモノにしてやろうなどとすると、大切な自分の芸術を失ってしまう。芸術はその人に本有のものから発するものだ。外に向かって求めるべきものでなく、内に向かって深く掘り下げなければならぬ。』臨済の語をこのように解釈してみるといいと思う。随所に主となるということは自惚れたりエラそうに振舞うことではない。捉われない心をもち自由な行動をすることができることだ。自分を失わぬということでもある」(辻晉堂の言葉は、すべて「辻晉堂著作集泥古庵雑記」=平成四年、三彩社刊=から引用しました)
徳島新聞 美術へのいざない 県立近代美術館所蔵作品〈42〉
1994年7月23日
徳島県立近代美術館 安達一樹