徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
学芸員の作品解説
『道元』-頭像
1972年
ブロンズ
28.0×18.0×18.0
1972年
ブロンズ
28.0×18.0×18.0
細川宗英 (1930-94)
生地:長野県
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細川宗英『道元』-頭像
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所蔵作品選1995
細川宗英 「『道元』-頭像」
安達一樹
この作品を見てまず感じることは、ある種の異様さではないでしょうか。そして、この異様さを与える一番の原因は、義眼を用いた光沢のある眼の表現にあるといえます。彫刻作品の眼に、このような光沢のあるものを使用することは、特に奇抜な思いつきではありません。たとえば仏像の世界でも、奈良時代から瞳の部分に黒曜石を嵌め込むことが行われていますし、鎌倉時代以降になると眼球の部分に水晶を用いた玉眼という方法が一般的になってきます。また、現代の彫刻作家で人気の高い舟越桂も眼に大理石を使用しています。
この〈『道元』-頭像〉は1972年に制作された全身像の作品〈道元〉の頭部を独立させて作品化したものです。〈道元〉は1972年の新制作展に出品され、同年の第3回中原悌二郎賞・優秀賞に選ばれています。中原悌二郎賞の選考委員である彫刻家の本郷新は、義眼を用いたことについて「使用すると、ややもすれば彫刻が死んでしまう危険があるが勇敢にそれにいどみ、成功させた。その眼は生動感にみなぎり、義眼が彫刻全体を生かす役割を見事に果たしている」と語っています。
今回紹介している〈『道元』-頭像〉は、その頭部を独立させた作品ですから、本郷新の評は、少し当てはまらない部分もありますが、「義眼が彫刻全体を生かす役割を見事に果たしている」ことは間違いありません。
この眼は、明らかに意志を表明しています。それは徹底的に見つめるということです。では、何を見つめているのでしょう。
作者の細川宗英(1930-94)は、1956年に東京芸術大学彫刻科専攻科を修了、初期は具象的な作品を制作していましたが、その後、抽象に転じて、65年に高村光太郎賞を受賞した作品はセメントによる抽象的な作品でした。
そして68年に文化庁芸術家在外研修員として、アメリカ、メキシコ、ヨーロッパで学んで帰国した後は、具象や抽象にとらわれない新しい具象表現を行うようになります。そこで細川は「現代芸術咀嚼の上に新しい人間像を謳い上げて行く道を見出す事以外無い」と思い、「人間とは生と死との間でさまよい離れようと思っても離れられず、うごめき、捨てようと思っても捨てられぬ愛憎、また悟ろうとあがく生の人間、この悲しい生命ある者の姿、ここから離れられないのだ、という自覚をもとに仕事をしようと思った」といいます。
ここから〈男と女〉や〈王様と王妃〉のシリーズが生まれ、また「地獄草紙」や「餓鬼草紙」といった絵巻物から想を得たという作品群は「地獄というすさまじい極限に立たされてなお生きようとする人間の姿を、彫刻という造形方法でとらえ、表現したい」というものでした。そして、全身像の〈道元〉もちょうどこの時期の作品なのです。
道元(1200-1253)は『正法眼蔵』で知られる、鎌倉時代を代表する宗教家で、曹洞宗の開祖。座禅によって釈迦に還ることを唱え、実践を重んじた仏僧です。細川は、道元に「きびしく自分の怠慢と対決したい、自分を戒めて仕事をしなくては…。そういう意味から精神的よりどころをもとめていた」といいます。
すなわち、この細川の道元の眼は、作者自身を見つめる眼であり、いまそこにある人間の姿を見つめる眼なのです。私たちは、この作品の前に立つとき、己の生き様が、この作品を鑑賞することによって自分に返ってくる眼差しの厳しさに耐えられるかどうか、深く自省したいものです。
徳島県立近代美術館ニュース No.47 Oct.2003 所蔵作品紹介
2003年9月
徳島県立近代美術館 安達一樹
2003年9月
徳島県立近代美術館 安達一樹