徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
ものを言わぬ人
1985年
アクアチント、コラージュ 紙
156.9×87.5
ミンモ・パラディーノ (1948-)
生地:イタリア
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パラディーノものを言わぬ人
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20世紀の版画展

ミンモ・パラディーノ 「ものを言わぬ人」

吉原美惠子

 何かを口に出して言おうとしているのに、思うように声が出ないでウンウンうなるしかすべがない…、こんな夢をみたことがある人は多いはずです。その際、自分の魂が目を持ち、自分の肉体を客観的に見ているような不思議な感覚が生まれたのを体のどこかが覚えてはいないでしょうか。
 また最近、テレビでは日本人宇宙飛行士による「宇宙から自分のいない地球を見ました」というせりふが何度も流されています。自分の目で地球の姿を見ることは夢や想像の中だけでかなうことであったわけですから、これは確かに感動に満ちた体験であったことでしょう。しかし、意外と魂がその器の抜け殻を見るような、違和感のあるものだったかもしれません。そのような、いつもの暮らしにはない感覚、体のどこかに潜んでいる感覚を呼び覚ます力が、パラディーノの作品にはしばしば認められます。
 〈ものを言わぬ人〉は口に手を当てた人が、やみから白く浮かび上がるように表現されています。恐れているようでもあり、驚いているようでもあるその表情は、現代社会の中で困惑している同時代の美術表現の世界を象徴しているようにも見えます。画面に縫いつけられた黒く長いウサギのような耳も、やみに浮かぶ仮面のような形もそれまでの絵画の伝統には見られない、新しい平面の可能性を探ったあかしでしょう。アフリカ文化の影響の断片が見てとれるかもしれません。白と黒との強烈なぶつかりが、画面のそのような印象を一層強いものにしています。
 パラディーノは1948年、イタリアに生まれました。表現において、伝統はもはや郷愁を伴って照明の下に引っ張り出されてくるものではなくなっていたし、新しい世の中を導いてきた技術の進歩は一時期ほどに崇高なものでもなくなりました。そんな中で彼は古典と前衛をしっかり見据え、その才を開花させたのです。
 ある時彼は、自分は夢ではなく、眠りについて語ろうとしているのだと語っています。夢はイメージの世界のこととして扱われますが、眠りはより根源的でイメージ以前のものだといえるでしょう。ですから私たちは彼の作品を夢の中の物語のように、読み解こうとする必要はありません。目で触れ、いつもはどこかに潜んでいる感覚でとらえようとして向き合うことが大切だともいえるのです。
 自由に時空を浮遊することのできる私たちの感覚、想像力を、眠りの表現の前で眠らせているわけにはゆきません。
徳島新聞 美術へのいざない 県立近代美術館所蔵作品〈31〉
1994年4月8日
徳島県立近代美術館 吉原美惠子