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所蔵作品展2000-III |
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明治以降の日本では、開国による外国からの影響をどのようにとらえるのかということが、重要な問題でした。 日本画の世界では、明治初めにアメリカからやってきたフェノロサにより、伝統的な日本画が賞賛されるようになりました。彼は、岡倉天心(おかくらてんしん)とともに1887年の東京美術学校の設立に尽力します。さらに、天心は98年春には、在野の美術団体、日本美術院を結成します。この団体では、洋画にも、古くからの日本画にもかたよらず、あくまでも自主創造の日本絵画を求めるという理想を掲げたのです。そして、この団体の展覧会を院展と呼びます。冨田渓仙(とみたけいせん)は大正期の院展の中心メンバーですし、橋本関雪(はしもとかんせつ)、鏑木清方(かぶらききよかた)も院展に出品しています。 また、19世紀末から20世紀初頭にかけてのパリは、芸術のメッカともいえる都市でした。こうした状況は、留学した少数の人々や雑誌などを通じて、当時の日本の画家たちも知ることができました。そして、多くの美術家たちが、本場の美術にふれるためにフランスに渡ります。その中でも油絵を志す者たちは、日本に油絵の伝統的な背景がないが故に、何かよりどころを求めたのかも知れません。伊原宇三郎(いはらうさぶろう)、児島善三郎(こじまぜんざぶろう)、林武(はやしたけし)たちの描いた人間像から、ピカソの影響を見ることができます。そして、彼らは帰国後、いかにして独自の作品を生み出すかに苦闘するのです。 【執筆: 主任学芸員 吉川神津夫】
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(所蔵作品展2000-III 解説パンフレットより) |
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