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幸田親子と徳島の画家たち
  暁冶は京都で生まれましたが、両親とも徳島市出身だったことから、よく徳島を訪れています。子どもの頃は、徳島の海水浴場で泳いだといいます。
  京都に学んだ徳島の画家の数は少なくないのですが、京都に居を構え親子二代に渡って活躍したことから、幸田親子の存在は日本画を真剣に志す者にとって特別なものがあったと考えられます。たとえば、徳島市出身の三木文夫(1912~2004年)は、中学(現在の徳島県立城南高校)を卒業後、京都の京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)に進み、在学中は学校に近い春耕の画室に「毎日のように」立ち寄ったといいます。春耕の制作に触れることで日本画家への志望を固めていったのです。そして、三木も春耕と同じ早苗会に入り、京都画壇の画家として、戦前の文展、戦後の日展などで活躍しています。
市原義之<起重機のある工場>  暁冶に刺激を受けたのは、市原義之(1943年~)です。市原は小松島市に生まれ、金沢市立美術工芸大学、京都教育大学特修美術科日本画専攻科に学びます。その後、京都に留まり日展を舞台に活躍。現在は日展会員。審査員もたびたびつとめています。市原も青年時代、幸田家を何度か訪れた一人でした。
  本展では、二人の師である山元春挙、池田遙邨の作品もご紹介します。実はいずれも京都生まれでなく、春挙は滋賀県、遙邨は岡山県の出身です。異なる出身地と文化的背景をもつ人が活躍することで、京都画壇を豊かにした例がここにもあるといえるでしょう。伝統のうえに新しい表現を付け加え、京都と地方の人的な交流もまた新たにされていく。それは、近世から続く京都画壇の創造の秘密だったのかもしれません。

おわりに-二人の晩年
  最後に春耕、暁冶の晩年のことにもう少し触れてみたいと思います。暁冶が急性肺炎で亡くなったのは1975年の11月。春耕は、同じ年の4月に妻のキクノを見送ったばかりでした。
  春耕は息子の活躍を喜びながらも、病のことを生涯心配していました。「その体ではムリ、絵ではメシは食えん」と画家の道へ進むことに反対したこともあったといいます。春耕は1974年に77歳で無所属となりますが、前年に無所属となった暁冶と歩調をそろえたのでしょう。そして彼自身、息子の後を追うようにして亡くなっています。
  二代にわたって活躍した画家のなかで幸田親子の場合は、父から子への影響とともに、子から父への刺激や影響があるなど、濃厚なものがあったように感じられます。そんな二人の生涯も、京都画壇の奥行きある物語の一つとなったことは確かなのです。

(専門学芸員 森 芳功)
(徳島県立近代美術館ニュース No.67 掲載)


 【図版】 市原義之 〈起重機のある工場〉 1968年 徳島県立近代美術館蔵

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