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暁冶のこと
幸田暁冶<調教師>   幸田暁冶(1925~1975年)は、春耕の息子として京都市で生まれます。本名は稔(みのる)。不治の病だった結核とたたかいながら絵筆をとり、燃焼した50歳の生涯でした。
  結核と診断されたのは小学校2年生のとき。以来、病に苦しみます。京都市立美術工芸学校(現在の市立銅駝美術工芸高校)や京都市立美術専門学校(現在の京都市立芸術大学)も、休学がちでした。しかし、1951(昭和26)年に手術を受けてから、いくらかの小康状態を得ることもでき、1954年池田遥邨に師事。翌年、青塔社の会員となって、展覧会に出品していきます。
  日展に出品する他、京展や青塔社展などに意欲的な大作を次々と発表しました。とくに京展では、受賞を重ねたことから、京都画壇の若手ホープと見なされるようになります。新しい世代を担う作家として、新聞各紙で次々と取り上げられており、当時の記事を読むとその期待の大きさがうかがえます。
  彼は、鳥や動物、花々など、伝統的な題材を描きながらも、いままでの日本画にはない、原始的な荒々しさを感じさせる力強い表現を行いました。人物を描いても、どう猛なライオンを従える調教師や大きな太鼓を叩く人、リズム感いっぱいに踊る人など、その強烈さは生へのあこがれを表しているかのように感じられます。感情をそのまま画面に表すことのできる絵づくりを模索し、絵具を厚く塗り重ねたり、削ったりする表現が新鮮な個性を見せていったのです。
幸田暁冶<踊り子>  その一方で、やさしい視線を幼い娘達に注いだ作品、繊細な情感で踊り子の姿を表した作品も残しています。画家のなかでは、命へのあこがれを示す力強さと繊細さが同居していたのでしょう。晩年になると、「時間がない」「時間がない」と話すことが多くなり、命の残り時間を知っていたかのごとく、また病弱な体にむち打ち命を縮めるかのように制作に没頭していきました。クリスチャンであったことから、修道女やキリスト、天使の像も描いています。
  晩年の1973年には、青塔社も退会し無所属となります。より自由な立場で制作に打ち込もうとしたのでしょうか。いずれにしろ、作品への評価も広がり、山種美術館賞展への出品や東京での個展開催など、より広い舞台で活躍しようとしたそのやさきに死が訪れます。


 【左図版】 幸田暁冶 〈調教師〉 1964年 個人蔵
 【右図版】 幸田暁冶 〈踊り子〉  1975年 個人蔵 

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