美術館TOP よみもの

春耕のこと
幸田春耕<牡丹>  幸田春耕(1897~1976年)は、現在の徳島市国府町に生まれました。本名は賢(まさる)。父親は、端午の節句の鍾馗図(しょうきず)などを描く職人的な画家でした。賢少年は仕事を手伝ううちに画技を身につけ、画家への志望をつのらせていきます。本格的に絵を学ぶため20歳頃京都に移り、22歳で山元春挙(しゅんきょ)に師事します。京都画壇の勢力を竹内栖鳳と二分した大家への入門でしたが、修行としては遅いスタートだったといえます。さらに、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)を卒業したのは37歳。徹底的な写生に取り組んだ、その苦労がしのばれます。
  「春耕」の雅号は、師から一字をもらったものです。しかし彼がなぜ、春挙の画塾、早苗会(さなえかい)に入ることができたのか、詳しいことは分かっていません。徳島市出身の日本画家、坂東貫山(かんざん)が、すでに早苗会に入っていましたので、京都に来て、つながりができたのかもしれません。
  いずれにしろ春耕は、昭和初期から帝展(帝国美術院美術展覧会)や新文展(文部省美術展覧会)で活躍し、軍鶏や雁など鳥の姿を丹念に描いた作品が評価を受けました。そして、戦後は日展に出品します。絵具を濃厚に用いた作品に取り組むなど、若々しい模索も行っています。60歳を超えて描いた、向日葵を大胆に変形した大作は、息子、暁冶の表現に刺激を受けたものだと言われています。〈牛の園〉も、牛の形を簡潔に整理し濃厚に絵具を塗り重ねています。新しい時代の日本画に対応しようとした意慾がうかがえるのではないでしょうか。
幸田春耕<牛の園>  彼はまた、水上勉の小説「雁の寺」のモデルとなった相国寺の塔頭にある雁の絵でも知られています。花鳥画の伝統のなかで画業をはじめ、戦後は、鳥や動物、花々を現代的な感覚で表そうとした画家だったと言えるでしょう。
  春耕が画室を置いた京都市下鴨は、戦前から「絵描き村」と呼ばれていて、若い画家たちが芸術や人生を語りあったそうです。そのような雰囲気のあるなか、下鴨に住む池田遙邨(ようそん)が中心となって生まれた画塾が青塔社です。春耕も1953(昭和28)年の結成に参加しました。画家たちの個性や横のつながりを大事にするなごやかな雰囲気があったそうです。その頃春耕は、50歳代なかばになっていましたので、今で言う運営委員のような指導的役割もはたしており、しばらくは春耕のアトリエで研究会が開かれていたといいます。


 【右図版】 幸田春耕 〈牛の園〉 1954年 徳島県立近代美術館蔵
 【左図版】 幸田春耕 〈牡丹〉 大正~昭和初期 個人蔵 

←前へ次へ→

※画像の無断コピーは、法律で禁じられています。
Copyright:徳島県立近代美術館.2008