徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
阿南の海
1927年
絹本着色
165.0×175.0
日下八光 (1899-1996)
生地:徳島県那賀郡
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日下八光阿南の海
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日下八光 「阿南の海」

森芳功

 日下のなかでは、数の少ない故郷を題材にした作品です。もととなったスケッチの書きこみから、現在の阿南市、北の脇海岸を描いたことが分かっています。
 この作品が描かれた1927年といえば、日下が20代なかば、東京美術学校卒業後、将来の方向性を探っていた時期にあたります。1925年・26年頃まで東京で制作し、1928年には、大谷探検隊がもたらした西域壁画の模写をおこなうために朝鮮半島に渡り、帰国した後も東京での活動が続くことを考えれば、1927年頃は、故郷で比較的長く過ごすことのできた貴重な時期だったように思われます。
 季節は、初春。家の裏手に、桃や梅のようなピンク色の花が咲き、八朔らしい黄色い実のなる木も見えます。一方で、枯れたような茶色の草も見えますので、まだ寒さの残る時期のようです。冬から春に移り変わろうとする微妙な季節感を表そうとしたものなのでしょう。それら身近に感じた自然の姿を、家々や海岸をのぞむ遠景ともに丁寧な筆遣いで表しています。干物を干す人や帆をつけた小船も描きこまれ、のどかな生活感も感じさせています。
 ひょっとすると日下は、ゆったりとした時の流れを感じさせる明るい風景に、桃源郷、理想郷とまではいわないまでも、故郷をいくらか理想化する気持ちを込めていたのかもしれません。そんなことを思わせるほど、のどかに、そして洗練させて描いています。おだやかに画面に向かう作家の姿を想像させてしまうものがあるのです。俯瞰的に風景を表している点も興味深く感じられます。北之脇海岸の周辺に海岸を見下ろすことのできる場所はないのですが、あえて高い視点から捉えたのは、まるで天上から、花々も家も人々の生活もまるごと表そうとしたようにも思えます。もし、日下が、理想郷として捉える気持ちをこの風景に込めているのなら、初春の花々だけでなく、夏の海、冬の枯葉など、他の季節もいっしょに描き込んだと考えることができるかもしれません。しかし、それは想像をふくらませ過ぎでしょうか。
 さて、技法の面も見ておきましょう。ここで見られる透明感ある色彩や洗練化された感覚は、東京美術学校在学時代から試みていた、絹の地に淡く絵の具を塗り重ねていく技法によっています。その後の大作は、和紙に厚めの絵の具で描いていくため、技法の面でも彼の初期の特徴を示しています。写生をもとにする表現は以後も変わりはありませんが、群青や緑青とよばれる絵の具を多く用いる古い大和絵に学んだ表現など、後にあまり見られない要素があるのも興味深い点です。この作品で日下は、それまで学んだことを踏まえながらも、新しい要素を取り入れ、比較的自由に描こうとしていたのではないかと思われます。
 どのような作品も、作家にとって一回性のものであり繰り返すことはできませんが、「阿南の海」も、徳島の風景を繊細な筆づかいで描いた若い時期の意欲作という点で、すべて初期の日下を物語っているといえるのかもしれません。
鑑賞シートno.1 - 徳島の美術 「指導の手引き」より
2004年7月
徳島県立近代美術館 森芳功