徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
鳴門
1949年
紙本着色
218.5×139.7
池田遙邨 (1895-1988)
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池田遥邨鳴門
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徳島新聞連載1990-91 毎日新聞 四国のびじゅつ館

池田遙邨 「鳴門」

森芳功

 豪快に渦をまく鳴門海峡のようすを描いた作品です。激しい潮の流れは、水面を白く泡立たせながらいくつもの渦をつくりだしています。
 干満の差がつくりだす海峡の潮の流れは、極端に強調され、まるで滝が流れ込んでいるかのように表されています。しかも、海面と遠くの島影を湾曲させることで、激しく渦巻く潮の印象をさらに強め、暮れかかる空の色とともに、画面をより劇的なものにしています。
 作者の池田遙邨【ようそん】(1895-1988年)は、戦後の京都画壇を代表する日本画家の一人です。京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)に学び、戦前の帝展(帝国美術院展)、戦後の日展で活躍。日展の役員や芸術院会員などを歴任するとともに、文化功労者に選ばれ、92歳のときには文化勲章を受章しています。
 遙邨は、「旅の画家」と呼ばれるほど各地を旅行した人でした。江戸時代後期の浮世絵師・歌川広重にあこがれ、若い頃は東海道を歩いて取材。ついには〈昭和東海道五十三次〉(1931年)58点を描いています。
 四国も歩きました。1932年6月に出発した四国旅行のことをエッセイに記しています(1)。それによると、大阪から船に乗り、徳島県の小松島港に上陸。県南の日和佐から牟岐を通り、高知県の室戸岬を目指して歩いていったようです。友人の画家との二人旅で、法被【はっぴ】と地下足袋【じかたび】姿だったといいます。帝展で活躍する日本画家とは誰も思わない出で立ちであり、遙邨自身自由な旅を楽しんだようです。ただ、この1932年の四国旅行のとき、彼が鳴門海峡を訪れたかどうか記録はありません。
時期ははっきりしないのですが、次のような言葉も残しています。「鳴門海峡にある無人の裸島へ渡って写生した渦巻きのものすごい日没時の光景、それにごう音は、私の耳ダをはなれない」(2)。遙邨は、渦潮の近くまで船で取材に向かい、揺れる船や海上の岩のうえから渦潮の轟音を聞いたのでしょう。彼の描いた〈鳴門〉の迫力は、現地で体験した実感なしには実現できなかったように思えます。
 この絵を観るうえでもう一つ忘れてはいけないのが、歌川広重〈六十余州名所図会 阿波 鳴門の風波〉など、名所絵からの刺激です。渦潮を写実的に描くのではなく、波頭を様式化して表す江戸時代の描き方が活かされているのです。ただし、伝統を踏襲するのではなく、ここでは取材で体感したリアリティーを自身の形に置き換え、強い迫力をともなった彼だけの表現に高めています。濃厚な色彩も印象的であり、斬新な表現といえるのではないでしょうか。
 遙邨のご長男で日本画家の池田道夫氏(日展参与)からうかがったお話が心に残っています。「父は、一作一作すべての作品を挑戦する気持ちで描いており、常識にとらわれた絵をきらっていました」という言葉です。この作品には、取材時の感動をいかに色と形で表すのか自らに挑んだ作品であり、それまでの常識をやぶるような工夫がいくつも込められているのです。
 〈鳴門〉は、1949年の第5回日展に出品されたもので、池田遙邨の代表作の一つに数えられています。

(1)池田遙邨「旅で食べた忘れられない味」『日本美術』83号、1972年2月。
(2)池田遙邨「海と私」『夕刊京都』1961年5月11日。
徳島県立近代美術館ニュース No.86 July.2013 所蔵作品紹介
2013年7月
徳島県立近代美術館 森芳功