徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
ベンチに座るサングラスの女
1983年
ブロンズ、その他
130.0×152.0×81.0
ジョージ・シーガル (1924-2000)
生地:アメリカ
データベースから
シーガルベンチに座るサングラスの女
他の文章を読む
作家の目次 日本画など分野の目次 刊行物の目次 この執筆者の文章
他のよみもの
所蔵作品選1995

ジョージ・シーガル 「ベンチに座るサングラスの女」

竹内利夫

 ポツンと一人ベンチに腰掛ける女性。ただ何となく前を向いて、首をかしげたようにも見えます。細い肩を落としてそっと膝にのせた両手。所在無いとはこういう姿を言うのでしょうか。サンダル履きにサングラス、薄着の様子からして気候の穏やかな場面を想像することもできるでしょう。そしてもう一つ、見過さずに注目してもらいたいのは、この人体像が本物のベンチに座っているという点です。
 作者シーガルは、このように日常的な物品と人体像を組み合わせた作風で知られます。椅子などの家具だけでなく壁や床、果ては街角の信号機やバスターミナルのゲートまで。その環境の中で、登場人物たちはいつものように仕事をしたり思い思いの時間を過ごしたりしています。その主題も、何気ない室内の一コマから店や工場の場面、あるいは神話や戦争など大きなテーマに基づくものまで様々です。
 このベンチの女性のそばへ寄ってみると、奇妙な外見が目につきます。胸元のボタンやスカートのプリーツなどリアルなところもあれば、まるで生クリームでも塗りたくったように荒く仕上げた部分もあります。「なぜちゃんと作らないの?」と素直な感想文を書いた子がいましたが、その観察眼は実は正確なものです。シーガルは、モデルとなる人に服を着せたまま、石膏を浸した布を何枚も貼り付け、人の「型抜き」をします。腕や脚などに分割して型どったパーツをつなげて、人体は再構成されます。そうしてできあがった型の内部に石膏を流し込むことで、最終的な人体像が完成します。
 これは想像するほど容易なことではありません。「首に頭部をどのような角度で取りつけるかが、その人の精神生活にとっては決定的な意味をもっています」とシーガルは説明しています。※1 湿った石膏は衣服の下に隠れた筋肉や骨組みを明らかにし、手のしわや服装の細部を採取するにとどまらず、その人の物腰まで写し取ってしまいます。実際シーガルは、いわば演劇的な作品の空間に、人物像が占める心理的な距離を計画しながら、モデルにポーズを要求すると語っています。「心の状態にほんのささやかな変化が生じても、それは、外に現れます」。※2 シーガルが形や表面の奥にあるものを見つめているのだと分かる言葉です。
 事実、この作品においても、目の表情や髪型などあいまいな点が多々あるにも関わらず、あるいはそのおかげで、「その人」の飾らない何気なさが意外な臨場感をもって伝わってきます。リアルさとあいまいさをない交ぜにするシーガルのさじ加減が、かえって人物への様々な関心を呼び覚ますのでしょう。それが日常の物品と混在することで一層、現実味と共に私たち自身の記憶をも映し出す、懐の深さを生んでいると言えるかも知れません。さらにこの作品は、実際に座ることのできるベンチとして開かれた空間を用意しています。他のシーガルの群像作品とまた違った、一対一で向き合う親密さも持ち味です。人体像は屋外向けにブロンズで鋳造され、白い着色処理が施されています。
 ところでシーガルがこのような型取りの表現を始めたのは、1960年代の初め、既成の価値観を覆すような美術の動きが活発化した時代でした。広告や日常の事物をクローズアップするポップ・アートが一世を風靡した、当時のアメリカ社会の空気とシーガルの表現は底辺で通じ合っています。日常への愛着、それ以上に毎日を暮らす人々の存在そのものに対する畏敬の念を、シーガルはたびたび口にしています。解放的で騒がしい活気に満ちた1960年代とは異なり、複雑な世相を生きる今日の私たちにとって、むしろシーガルの真摯な眼差しは格別のメッセージを伝えているようにも思えます。だから、この作品を見て「今日の夕ご飯何にしようかな」とカルタを詠んだ中学生の視点を、きっとシーガルも私たちも認めていくことができると思うのです。

※1 フィリス・タックマン著、酒井忠康・水沢勉共訳『ジョージ・シーガル』美術出版社、1990年 p.114
※2 前掲書 p.109
鑑賞シートno.6 - 世界の美術 「指導の手引き」より
2008年1月31日
徳島県立近代美術館 竹内利夫