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 4 初期洋画のパイオニア


【守住勇魚〈新橋停車場風景〉】  守住勇魚は、守住貫魚の次男として、現在の徳島市中央通に生まれました。1872年に家督を嗣ぎ日本画を学びましたが、1875年に上京。国沢新九郎の私塾彰技堂において画学を修め、1876年に我が国最初の官立美術学校として設立された工部美術学校に入学。我が国の洋画揺籃期に、初めて本格的な美術教育を学びましたが、フォンタネージの辞任を契機に、1878年浅井忠らと工部美術学校を退学し、十一会を結成。翌年徳島に一時帰郷しましたが、この年大阪に出て大阪専門学校の画学教員となっています。その後京都に移り、1893年頃から再び日本画を制作しています。
  今回の展示では、洋画家の先駆者とし活躍した守住勇魚の工部美術学校時代などの初期の作品を展示し、初期洋画のパイオニアとして活躍した勇魚の画業について紹介するとともに、我が国の洋画黎明期において工部美術学校が果たした役割りについて紹介いたします。
(担当:仲田耕三)
  

 5 気配が立ち上る時


【菊畑茂久馬〈月宮第一番〉】   作家と話をしていると、小さな画廊の展覧会でも、アトリエで作品を見ている時とは全然違うということをよく聞きます。
  この違いが生まれる理由として、見る場所の違いはさほど重要ではないでしょう。むしろ、見え方に決定的な違いが生まれるのは、美術館でも画廊でも、展示作業の過程にあるように思います。
  それは、会場の壁に仮置きしている作品をある高さまで上げられることによって、初めて落ち着いて見える瞬間があるということです。
  しかし、当館で開催した菊畑茂久馬の個展(1998年)を私が担当した時、展示の過程で体験したのは、もっと強烈な感覚でした。
  この展覧会は、大作絵画のみによる展覧会だったので、作品が次々に吊り上げられていく毎に、オーラを発していくように感じたのです。中でも、今回4点を紹介する高さ3.3mの連作<月宮>が展示された時には、神々しい気配が立ち上るようにさえ感じたものでした。
(担当:吉川神津夫)
  

【上図版】 守住勇魚 〈新橋停車場風景〉 1876-78年頃
【下図版】 菊畑茂久馬 〈月宮第一番〉 1988年 

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