徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
伊原宇三郎 白衣を纏える
白衣を纏える
1928年
油彩 キャンバス
100.6×81.4
伊原宇三郎 (1894-1976)
生地:徳島県徳島市
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伊原宇三郎白衣を纏える
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徳島新聞連載1990-91 毎日新聞 四国のびじゅつ館

伊原宇三郎 「白衣を纏える」

江川佳秀

 伊原宇三郎は、1925年から29年にかけてパリに留学しました。この作品は、留学生活も終わりに近い1928年に描かれ、その年11月のサロン・ドートンヌに出品されたものです。褐色を基調として豊満な女性像を描き、椅子の背もたれの赤と体にまとった布地の白が、画面にアクセントを添えています。静かで気品さえ感じさせる作品です。
 ところが画面をよく観察すると、女性の手足が異様なまでにたくましく描かれていることに気づきます。すでに色々なところで指摘されていることですが、これはピカソの「新古典主義」と呼ばれる作品群に学んだ表現です。常に新しい表現を開拓し続けたピカソですが、その頃は写実を重視した古典的な趣のある作品を描き、パリの美術界で注目を集めていました。その頃のピカソの作品には、モデルの容姿や手足の表現、色調など、伊原のこの絵によく似たものがあります。
 伊原がピカソの「新古典主義」から強く影響を受けたことは有名な話です。しかしそのような画家は伊原に限りません。ピカソがパリの美術界の花形だっただけに、その頃パリに滞在した日本人画家の多くが、何らかのかたちでピカソの「新古典主義」から影響を受けています。たとえば中野和高や鈴木千久馬も、やはり手足を強調した豊満な女性像を描いています。伊原と同じ頃にパリに留学し、帰国後は揃ってピカソの追随者とみなされた画家です。伊原と中野、鈴木の3人が出品した1930年の聖徳太子展という展覧会記事を見ると、「次の部屋は帝展の新進 中野和高、鈴木千久馬、伊原宇三郎氏のピカソ」といった記述があります。(児島善三郎「聖徳太子展批判」『アトリヱ』1930年5月号)
 また帰国後の伊原が、盛んにピカソに関する著作を発表したこともあって、ピカソに学んだ画家が数多く現れ、国内の美術界には大ピカソ・ブームともいうべき現象がまきおこっています。
 とはいっても、伊原ほど深くピカソに傾倒した画家は、ほかにあまり例がありません。中野や鈴木らの作品にはピカソの影響を見ることができますが、同時にフォーヴィスムなどの影響を見ることができます。彼らは表面的にピカソの絵のスタイルを取り入れたにすぎず、その後はピカソから離れていきました。しかし伊原の場合は、厳格なまでにピカソに忠実で、戦後もピカソを意識したと思われる絵を描いています。後々までピカソが制作の指針となっていたようです。
 伊原がピカソを受け入れたのは、一時の流行に流されてのことではありません。戦後になって伊原が書き残した留学時代の回想記によると、留学当初の伊原はピカソの良さがまったく理解できず、それが口惜しくてならなかったようです。そのためピカソの作品を求めて方々の画廊を訪ね歩き、繰り返し模写を制作しています。「一時は死にもの狂いであった」といいます。(「ピカソに憑かれる」『美術手帖』1955年1月号)やがて伊原は、ピカソの作品が西洋美術の伝統をふまえたきわめて理知的な表現であると理解し、深く傾倒していくことになったのです。そうしてみるとこの「白衣を纏える」は、伊原のピカソ研究の最初の到達点であり、伊原の画家生活にとって、記念碑的な作品だったといえるでしょう。
徳島県立近代美術館ニュース No.37 Apr.2001 所蔵作品紹介
2001年3月
徳島県立近代美術館 江川佳秀