徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
下着の裸婦
1926年
油彩 キャンバス
92.0×73.0
ジュール・パスキン (1885-1930)
生地:ブルガリア
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パスキン下着の裸婦
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ジュール・パスキン 「下着の裸婦」

友井伸一

 異郷の地、放浪、孤独、退廃といった言葉が想起させる落ちつき場所のない屈折した情念が、とりわけ二十世紀初頭のパリには似合っていたようです。
 1913年(大正二年)の夏、藤田嗣治は長い船旅を経てパリに到着します。この年、すでにパリに出ていたユダヤ人でイタリア出身のモディリアニは、パリのモンパルナスに居を定めます。また、ポーランド出身のキスリングは、モンマルトル生まれの私生児ユトリロと知り合いました。
 このころから第二次世界大戦の始まる1939年までの20年余りの間、フォーヴィズムやキュビズム、さらにはダダやシュルレアリズム、抽象主義といった流れにとりこまれずに、パリで活動した一群の人々がいます。エコル・ド・パリと呼ばれる先に名前を挙げたような人々は、誤解を恐れずに言えば、一種の異端者たちでした。外国人であったり複雑な生いたちを背負った彼らは、帰るところのない郷愁をかかえてパリに生き、パリとともに語られるようになったのです。
 ブルガリア出身のパスキンは、フォーヴィスムが興った1905年、二十歳の年にパリに出てきます。藤田の渡仏した1913年に、アメリカで行われた大展覧会「アーモリー・ショー」に選ばれて出品した後、翌1914年、第一次世界大戦のぼっ発した年にはアメリカへ渡りました。そして、アメリカの国籍を得、結婚もした彼は大戦終結とともに1920年の秋、再びパリに戻ってきます。
 1920年代、パリでの彼の生活は、快楽と退廃、そして自虐の日々でした。モンマルトルやモンパルナスかいわいで夜の帝王として大騒ぎするうちに、画家としての評判が高まるのとは裏腹に、破滅への道が始まります。
 当館所蔵の「下着の裸婦」は、ちょうどこのころの作品です。乱れた下着姿で腰かける、けだるそうな、おそらく少女なのであろう女性が、神経質で震えるような素早い線で描かれています。乳白色で透明感のある画面に溶け込んでいるほのかに白く危うげな少女の姿態は、憂愁の中にあらゆる悪徳をおし隠した一種のエロチシズムを漂わせています。
 1930年6月、血に染まった浴槽で手首を切り、首をくくったパスキンが発見されます。ドアに血文字で残されていたのは、友人の妻ルーシーの名でした。「さよなら、ルーシー」(ADIEU LUCY)。四十五歳、大規模な個展を直前にしての事件でした。
徳島新聞 県立近代美術館 19
1991年2月13日
徳島県立近代美術館 友井伸一