徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
下着の裸婦
1926年
油彩 キャンバス
92.0×73.0
ジュール・パスキン (1885-1930)
生地:ブルガリア
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パスキン下着の裸婦
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美術館ニュース 徳島新聞連載1990-91

ジュール・パスキン 「下着の裸婦」

仲田耕三

 パスキンは、ブルガリアのヴィディンで穀物商を営むユダヤ系の商人の子として生まれ、本名をユリウス・モディカイ・ピンカスと言う。17歳の時、画家を志して故郷を後にしたパスキンは、その後ウィーン、ミュンヘン、ベルリンなどの都市を転々としながら美術を学んでいる。特にミュンヘンでは、素描家としての才能を開花させ、週刊風俗雑誌「ジンプリツィシムス」の挿絵画家として専属契約を結ぶなど、早くから高い評価をうけている。1905年、20歳でパリに出てきたパスキンは、サロン・ドートンヌやサロン・デ・ザンデパンダン、ニューヨークで開催された「アーモリー・ショー」などに意欲的に作品を発表している。それまで、素描、水彩、版画を中心に制作してきたパスキンが、油彩画に本格的に取り組むようになったのもこのころである。
 1914年アメリカに渡ったパスキンは、それまで影響を受けていたフランス絵画の影響から逃れ、独自の色彩と筆致で再び具象的な作品を描き始める。
 第1次世界大戦後の1921年、アメリカ国籍を取得したパスキンは再びパリに戻り、モンマルトルに居を定めて、乳白色の淡い色彩を特徴とした独自の画風を確立し、成熟期を迎えている。
 この作品は、パスキンが中心的な存在でもあったエコール・ド・パリ(パリ派)の最盛期である1920年代に描かれたものである。モンパルナスのカフェやバーに入り浸り、仲間とともに享楽的な生活に明け暮れながら、娼婦や少女を観察し、憂鬱で哀愁に満ちた作品を描き続けたパスキンの物憂い眼差しが、作品を透して二重写しに見えてきそうだ。
毎日新聞 (四国のびじゅつ館)58 
1996年9月14日
徳島県立近代美術館 仲田耕三