徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
下着の裸婦
1926年
油彩 キャンバス
92.0×73.0
ジュール・パスキン (1885-1930)
生地:ブルガリア
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パスキン下着の裸婦
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徳島新聞連載1990-91 毎日新聞 四国のびじゅつ館

ジュール・パスキン 「下着の裸婦」

安達一樹

 ジュール・パスキンは、エコール・ド・パリと呼ばれる一群の芸術家たちの代表的画家です。本名はユリウス=モディカイ・ピンカスといい、パスキン(Pascin)はピンカス(Pincas)のアナグラム(単語の綴りの順番えお変えて別の語を作ること)です。1885年にブルガリアのヴィディンで生まれました。生家は裕福な穀物商でした。
 エコール・ド・パリとは、ちょうど今から100年くらい前の20世紀初頭、芸術の中心地と目されていたパリに集った、様々な国の出身の個性豊かな芸術家たちを括って呼ぶ名称です。メンバーで展覧会を開くようなグループでもなく、何々主義といった特定の流派や様式を一にする人々でもなく、それぞれがそれぞれの表現を追い求めました。パスキンを始め、ロシアのシャガール、イタリアのモディリアーニ、日本の藤田嗣治など、数多くの豊かな才能に満ちた若い画家が、華々しく活動を展開しました。
 パスキンの作品の代表的なイメージは、気怠さや虚無感と官能性を併せ持った、朦朧とした色彩に包まれた裸婦像です。この〈下着の裸婦〉も画面中央に肘掛けのある椅子に座った下着姿の女性を描いています。画面全体の色調からはやや暗い薄ぼんやりした空気感が漂いますが、女性はその中に埋没することなく、その存在がそこに表されています。
 それを際立たせているのは、色彩の中に見え隠れする、パスキン特有の小刻みで震えるような細い線です。この線が、ものの形態と微妙な色調を構成する骨格となり、女性の存在とその様子を的確に捉え、表しています。
 パスキンは、観察力と素描力にすぐれた資質を持っていました。ブルガリアの裕福なブルジョワ家庭の慣習としてウィーンでの中等教育を終えた後ミュンヘンに移った10代末に、作品を投稿したドイツの風刺雑誌『ジンプリツィシムス』から、月給400マルクという破格の高給の提示を受けて専属の挿絵画家となっています。同誌への素描の投稿は1914年まで定期的に続けられ、パスキンの豊かな経済的基盤となります。なお、このときに父親から名字のピンカスを素描の署名に用いないという条件がつけられ、綴りを組み替えたパスキンが用いられることとなりました。
 1905年、パスキンはパリに出ます。19世紀末からのベル・エポックと呼ばれる華やかな時代です。フォービスムやキュビスムなどの新しい風潮が次々と表れた時期にあたります。パスキンは素描家としては既に知られた存在でしたが、油彩画では個性的なスタイルを打ち立てるまでには至っていません。
 1914年に第一次世界大戦が始まると、パスキンはアメリカに移ります。新世界アメリカでの滞在は、画風に変化をもたらしますが、実験的な試作といえるものが多く見られ、模索が続きます。1920年にアメリカ国籍を取得、そしてパリに戻ります。
 再びのパリは、第一次世界大戦後の「狂乱の時代」と重なります。そのお祭り騒ぎの中、1924~25年頃から、おぼろげな色彩や真珠母色と呼ばれる色調と素描の一体化、画面に漂う倦怠感や官能性といったパスキン独自の作風が確立されます。
 1928年頃からこれまでの総集編ともいえる絶頂期を迎えますが、1930年、個展の開催を目前にパリのアトリエで自殺し、その生を終えました。
徳島県立近代美術館ニュース No.106 July.2018 所蔵作品紹介
2018年7月
徳島県立近代美術館 安達一樹