徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
子供と伯母
1937年
油彩 石膏、ジュート
72.0×53.0
パウル・クレー (1879-1940)
生地:スイス
データベースから
クレー子供と伯母* ※作品画像あり
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パウル・クレー 「子供と伯母」

友井伸一

 パウル・クレーは、1879年にスイスのベルン近郊に生まれました。最初は、音楽の分野で頭角を表し、ベルン音楽協会のヴァイオリン奏者として生計を立てていました。彼が美術の世界で知られるのは30才を過ぎた1910年代、抽象美術の先駆けであるカンディンスキーたちの前衛的なグループ「青騎士」と交流を始めた頃からです。そして、1914年の北アフリカ、チュニジアヘの旅行が、彼に決定的な転機をもたらしました。明るい太陽の光と輝く色彩に魅せられ、日記に「色は、私を永遠に捉えたのだ。私と色とは一体だ。私は絵描きなのだ。」と書いています。この後、彼の作品は叙情性を増し、色彩はより明るく、形態はより軽やかになります。また、第一次世界大戦の兵役の後、1919年には、ドイツのヴァイマルに、造形のすべての点ですぐれた人材を教師として集めて開校した近代デザイン学校「バウハウス」に招かれます。彼は1931年までの円熟期をここで過ごし、その制作と理論が今世紀の美術に与えた影響は大きく深いものがあります。
 しかし、ナチスの台頭が状況を変えます。その思想に合わないとされた「バウハウス」は廃校、彼も結局1933年にドイツから母国スイスヘ帰ることになりました。ところが、母国もまた彼に冷たく、スイス国外での活動もナチスによる監視のためままなりませんでした。さらに追い打ちをかけるように1935年に進行性皮膚硬化症という重い病気にかかってしまいます。精神的な孤立と肉体的な苦痛は彼の制作を停滞させました。この時期は、作品の数も少なく、孤独で寂しい心情が伝わるような画面となっています。
 この〈子供と伯母〉が描かれた1937年には健康状態がやや安定します。この年から1940年に亡くなるまでの約3年が最後の集中的な制作時期です。大まかな線で単純化された人体の形態、柔らかで明るい色の配置が生み出す穏やかなリズム、素朴さを感じさせるプリミティブ(原初的)な要素。そのどれもが、苦しい時期に獲得した高い精神性を支えとして自らの特質を結実させた成果です。彼の芸術の集大成のひとつがここにあリます。
徳島県立近代美術館ニュース No.18 July.1996 所蔵作品紹介
1996年6月
徳島県立近代美術館 友井伸一