守住勇魚「風景画(伝旧県庁正門)」の作品名及び制作年代考

はじめに
 当館には、守住勇魚作の「風景画(伝旧県庁正門)」という水彩画が収蔵されています。この作品は、平成8(1996)年度に収集されたものですが、収集当初からこの作品名に疑問を禁じ得ませんでした。今回、徳島県立文書館古文書担当係長徳野隆氏より、徳島県庁舎の変遷について御教示いただき、この作品の作品名についての疑問を解くことが出来たのを機会に、不詳となっていた制作年についても再考を試みたいと思います。

徳島県庁舎の変遷
 明治政府の廃藩置県により、明治4(1871)年徳島藩は、徳島県と改名され、県庁舎を旧家老であった賀島氏の屋敷(徳島市幸町、現在の徳島市役所の位置)に置いています。徳島県は、この年に名東県と改名されていますが、その後も、明治6年香川県を併属、明治8年香川県を分離、翌年高知県に併属と目まぐるしく変遷し、明治13年徳島県として独立し、今日に至っています。
 県庁舎については、大正15(1926)年、当時の小幡豊治知事が徳島城内に県庁舎新築移転案を打ち出しましたが、世論は賛否両論に別れ、県議会の反対もあって移転中止となっています。その後昭和5(1930)年現在の県庁舎の地である徳島市万代町に新築移転し、昭和61年現県庁舎を新築して現在に至っています。

賀島邸跡時代県庁舎
賀島邸跡時代県庁舎(明治4年〜昭和5年)

新橋停車場の変遷
 明治5(1872)年、新橋(汐留)横浜(桜木町)間に鉄道が完成し、「汽笛一声新橋を…」と鉄道唱歌に歌われた新橋停車場が開業しています。また、明治15年から17年頃には、駅舎正面右側に別棟で巡査派出所(交番所)が設置されました。大正3(1914)年東海道線の旅客ターミナルとして東京駅が完成したことにより、新橋停車場は貨物専用ターミナルとなり、汐留駅と改称。大正12年の関東大震災により、汐留駅構内のほとんど全ての施設が焼失し、新橋停車場時代の駅舎もまたこの時に消滅しています。平成8(1996)年旧新橋停車場跡が国の史跡に指定されたのを機会に発掘調査が行われ、平成15年建設当時の場所に新橋停車場駅舎外観を復元し、現在博物館として開館しています。

新橋停車場
新橋停車場(明治末期)

守住勇魚「風景画(伝旧県庁正門)」の作品名及び制作年代
 まず作品名についてですが、歴代の県庁舎の外観とこの作品に描かれた建築物の外観を比較しますと全く異なっていることから、県庁舎で無いことは疑う余地はありません。次に、写真に残された新橋停車場駅舎の外観と比較してみますと、細部についてもぴったりと一致することから、この作品は新橋停車場を描いたものと確認出来、作品名を「新橋停車場風景」とするのが妥当と言えます。
 次に制作年についてですが、前にも述べましたとおり、現在残されている構内図から新橋停車場に巡査派出所(交番所)が設置されたのは、明治15年から17年頃であったことが判明していますが、この作品には巡査派出所(交番所)が描かれていません。このことから、この作品は明治15年から17年頃以前に描かれたと考えられます。この頃の守住勇魚の経歴は、明治8年上京して國沢新九郎の私塾彰技堂において画学を学び、翌年工部美術学校画学科に入学。明治11年工部美術学校を退学し、翌年徳島に一度帰郷しますが、大阪に出て大阪専門学校の画学教員となり、その後京都に移り第三高等学校などの教員となっています。工部美術学校では、授業の一環として風景写生を行っていますが、残されたスケッチ等から守住勇魚も東京の郊外へスケッチに出かけていた様です。これらのことから、この作品の制作年は、勇魚の東京在住期間で工部美術学校在学時の明治9(1876)年〜11(1878)年頃とするのが妥当と思われます。

守住勇魚「風景画(伝旧県庁正門)」
守住勇魚「風景画(伝旧県庁正門)」


徳島県立近代美術館ニュース No.64 Jan 2008
2008年1月
徳島県立近代美術館 仲田耕三