徳島市出身


  

「青衣の女」作品画像

その後も熱心に絵を描き、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学。洋画や西洋の新しい美術の傾向に関心を示し、日本画の枠を超えた勉強を行いました。1912(明治45)年の卒業制作〈玉乗り〉は、「アカデミズムから決別した大胆な表現」の作として、現在、高く評価されています。

卒業後の数年間はなかなか認められず、気持ちが追い詰められた時期もありました。しかし、当時、画壇の最高権威と目された帝国美術院展(帝展)の第1回展(1919年)で〈青衣の女〉がいきなり特選を受賞。翌年の第2回帝展でも〈夕暮れの春〉が連続して特選となります。新鮮な表現で、画壇に劇的デビューをはたしたのです。

ちなみに「晃甫(こうほ)」の雅号は、オランダの画家、ゴッホの名前を漢字に置き換えたものと言われています。西洋から学び新しい日本画をつくろうとする意気込みが、ここからも伝わってきます。