
第二次世界大戦が終わり、疎開先から東京に戻った晃甫は、雅号を「滉人(こうじん)」に変えて再出発をはかります。体調を崩し、体も思うように動きませんでしたが、戦後の日展出品作〈窓辺静物〉(1949年)や〈秋圃〉(1950年)を見ると、充実した気力が伝わってきます。
とくに、明るい色彩と簡潔に構成された〈窓辺静物〉は、新時代の息吹を伝えるかのようなモダンで新鮮な感覚に溢れています。若い頃に抱いた新しい日本画をつくろうとする夢を、戦後の日本で再び実現しようとしたものでした。しかし、その夢を叶えることなく、1951(昭和26)年12月、病のため62歳で亡くなっています。






