凍熱―ハンス・ペーター・クーン

2007.1.27-3.11

凍熱-知覚のために

  「凍熱」という本展のタイトルには、二つの由来があるという。一つは、ドイツの劇作家であり演出家であったハイナー・ミュラーが、窓から吹き込む風に翻るカーテンの絵を「凍った嵐」と記した文章に基づく。もう一つは、科学的な根拠で、分子のエネルギーに言及する。分子がエネルギーを蓄えられると熱を保ち、活発に運動することは知られている。また、摂氏マイナス273度で、すべての分子は運動をストップし、凍りついたように静止する。ハンス・ペーター・クーンは、この二つのまったく異なる由来から、運動が凍りついたように見える瞬間として、現在を意識させようとする。

  展示の流れにおいて、始まりの作品には、展覧会タイトルと同じ作品名が与えられた。私たちが観るのは、長く、狭い通路の片側に設けられた陳列ケースの中に、一定の間隔を保ちながら、自然体を装い、並んでいる真白い光の行列である。約40メートルのガラスケースの中に木製の細長いボックスが据えられ、よく見ると、等間隔に蛍光管が並べられている。それらは作家によって、一本ずつ向きを違えられ、根元を支える小石を静かに照らしながら静止している。それは、花壇に植えられた草木が思い思いのすがたで、存在しているようでもある。また、光を目に焼き付けながら、ゆっくりと進んでいくと、蛍光管のゆるやかな動きに一定のリズムや動きが生まれ、連続写真が提示されているようにも見えてくる。作品の前を通過しながら、私たちは光の温度や運動、過ぎゆく時間をも見渡すような気持ちにさせられる。

  この、沈黙の音をたたえながら、凍りついたように冷たい光を放つ物体を、クーンは「未来の原始生物のようだ」とも語っている。それは、恐竜のように、陳列ケースの中に流れる時間を曖昧で謎めいたものとし、動態展示される動物園の生き物のように、今、目の前で、のたうちまわってもいるようである。

  狭い通路を抜け、鑑賞者が次に訪れるのは、豊穣な色彩に満ちた部屋である。壁面には、赤、黄、青とそれぞれ鮮やかな原色の光を放つモニター画面。混沌とした色面から現れる影。ゆっくりと動く影は、やがて、ばらばらに人の姿を出現させる。

  床、天上、壁に映る美しい色彩のリフレクション。部屋の中には、美しい9色のサテンのクッションが造作なく置かれ、鑑賞者を静かな鑑賞の時間へと誘う。画面の中では、緩慢に動く人影が、像を結んではまた、ぼやけ、曖昧な雰囲気を漂わせたかと思うと、ふいに現実の人のかたちに驚かされもする。私たちの意識を時に刺激し、時に解き放つ。緩やかな時間が流れる空間は、その前の張りつめた空間、狭い通路を通過した人たちには、とても暖かなものに感じられただろう。そして、緩慢な動きの中で、例えば、腕を上げることが、これほど大きく、激しい動作であったのかということにも改めて気づかされる。画面の中の一流れの静かな動きは、その場をかたちづくる音を伴い、ときに、一幕の舞台と同じ内容を持つ。

  次に足を踏み入れるのは、本展で最も広大な空間である。黄色の広い床面には、対になったたくさんの「なにか」が存在している。それらは光を放ち、音を発しながら、思い思いの場を占めて存在している。それらは、装置のようでもあり、植物のようでもあり、小さな禽獣のようでもある。この、観たこともない光景は、私たちによって定義されるのを待っているのである。逍遙すると、空間のあちこちから音が立ち現れては、また消えてゆくのがよくわかる。立ち止まって、一つの「なにか」に集中していても、一つ一つの独立した存在が、どこかで繋がり、関わりをもちながら在ることが認識されてくる。

  クーンは、この作品に関して、ある著名な物理学者のインタビューに言及した。彼が提唱した壮大な理論は、いつ、どのようにして閃いたのか、という問いかけに、その学者は、「あるとき、バス停でバスを待っていたら、自分の行くべきところに向かうバスが目の前に停まった。乗り込もうと、そのバスのステップに足を乗せた瞬間、閃いたのだ」と応じたという。私たちは、時間はまっすぐに、一定の方向に絶えず流れていると考えている。しかし、その流れと直角をなす時の流れがあってもよいのではないかというのだ。クーンは、<未知の光景>を、そのステップのようなものにしようと思い、人が、日常の生活時間から離れることのできる場とした。そこで、人は、例えば視覚的な時間の流れから、聴覚的な時間の流れに、自らスイッチを切り替え、乗り換えることができると考えた。

  また、この作品は、風景を連想させるという点で、クーンの作品にはまれなものでもある。この空間も、音だけでなく、美しい光に満ちている。壁を、床を、柱を照らす黄金色の光は、私たちの身体を包み込み、私たちの目を異なる世界になじませてしまう。隣接する<凍熱>からの白い蛍光管の光がこぼれる天井部分は、そのうちに美しい水色に染まって見えてくる。確かに、身体は、実に正直に色に反応しているのがわかる。

  目を転じて、付設されたような小部屋を観ると、美しい光のインスタレーション作品が待ち受けている。このスペースは、通常は休憩コーナーとして使用される空間であるが、作家はここに光のインスタレーションができるのではないかと申し出て、実際に、とても謎めいて、いたずらっぽく、かつ意味深い作品を創った。透明なポジ・フィルムを展示したとも、水槽を設置したとも見える緑の光の帯は、実はこの展示空間の中で、唯一、私たちが観ることができる現実の光景である。<くつろぎ>と題され、自然の植栽で目を休め、リラックスするという目的はあるものの、その空間には立ち入れず、不自然に鮮やかすぎる緑に、何かしら違和感と不満を抱かされる。芸術家の企ての気配の色濃い作品に向けられる鑑賞者の知的な好奇心に、クーンはしばしば次のように応えていた。「ものごとの背後には秘密がある。でも、その秘密は、実はあなたの中にある」と。

  これら全ての作品には、現実の認識というテーマが潜んでいるが、素晴らしいのは、その現れの平明なことと内容の豊かさだ。そして、それらを支え、成立させているのは、見えない部分の美しい仕事である。目の前のシンプルでいて、自由で自然な現れは、ルールに則り、組み上げられたシステムと、作品の本質への理解を踏まえた誠実な労働なくしてはあり得なかった。例えば、<未知の光景>に足を踏み入れ、私たちは作品世界を彷徨う。そこに在るものたちは、あたかも自然に存在するもののように、とても自由に、あるいは混沌とした様相を呈しているが、実際にはそれらのものは、光を発し、音を立ち上げるために、黄金色のフロアの下で、無数のケーブルにより緻密に制御されている。クーンの作品を貫く、透き通るような平明さとそれを支える美しい秩序が、この作品には見事に見て取れる。

  そしてまた、知覚や知への、クーンの明快な考え方にも気づくだろう。それは、情報を分析し、把握する働きが円滑に調うことを一義的に目指してはいない。知覚への刺激が、新しい記憶として蓄えられる経験をとても大切なものとして、クーンは働きかける。作品の中には、「普段と違って、どこか不自然なこと」を感じ取り、経験と照らし合わせながら、世界を自分なりに定義するという各々の知的な作業が待っている。そして、「わからなくてもいい。ただ、感じることをしてほしい」とだけ述べたクーンの用意した空間は、すべての人に大きく開かれていて、寛容だ。そこでは、素直に自分の感覚器官に問いかけながら、同時に、知を探っている。そこで人は、知覚により静かに自らと向き合い、極めて個人的な経験を通した、静かな身体の記憶として、知を獲得していることを知るだろう。

「凍熱―ハンス・ペーター・クーン」展図録
吉原美惠子 主任学芸員(展覧会担当)

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