[研究ノート] 明治初年の美術留学生井上辨治郎をめぐって(上)

 明治初頭にイギリスで洋画を学んだ人物に、井上辨治郎(いのうえ べんじろう 1860-1877年)という若者がいる。図版は井上がイギリスで制作した石膏デッサンのひとつ。画面右下には年記と署名があり、1876(明治9)年4 月の制作であることがわかる。的確で秩序だった量感の表現は、この時期の日本人画家としては卓越した水準に達しているといえるだろう。広く知られるとおり、井上の直前にはやはりイギリスに学んだ国沢新九郎や、アメリカ、フランスに学んだ川村清雄という画家がいる。しかし欧米への美術留学が本格化するのはこれよりはるか後のことであり、井上は最初期の美術留学生のひとりと位置づけることができる。

 井上の作品としては、石膏デッサン9点、油彩画1点、何らかの印刷物を模写したと思われる鉛筆画2点の現存が確認できる。いずれも留学中の作品で、徳島県立文書館に寄託されている。県立文書館には作品以外にも留学時代のノートや、留学時代に入手した洋書などの遺品も保管されている。本館では2000年 11月に同館の協力を得て、「近代徳島の美術家列伝」展で作品を紹介し、その後も調査を継続している。今なお不明な点が多く、充分な成果をあげているとは言い難いが、ここでは現状で知り得たことを2回に分けて記しておこうと思う。

 「近代徳島の美術家列伝」展図録でも紹介したが、新出の資料もまじえて、まず簡単に井上の経歴を振り返っておこう。

 墓碑銘によると、井上の渡航は井上が13歳の年、1873(明治6)年の春である。これは県立文書館金原祐樹氏のご教示による。帰国は1876(明治 9)年11月7日。こちらは外務省外交資料館が保管する旅券台帳に記録がある。したがって井上がイギリスに滞在したのは、実質3年余りということになる。早々と留学を切り上げたのは、ロンドンで肺病を患ったためだった。県立文書館が保管する遺品のノートには、帰国後ロンドンで世話になった人物にあてた英文の手紙の下書きがあり、帰国後も療養を続けていること、少しは病状が良くなったといったことが記されている。

 イギリスヘの渡航は、1歳年上の兄麟太郎と一緒だった。井上家は幕末明治の徳島を代表する豪商で、その頃は海運業にも進出していた。井上は分家から本家に入った養子だったが、養父はふたりに新しい時代を生きる教養と知識を身に付けさせようとしたのだろう。また当時の社会情勢も背景にあったと思われる。本格的な学制が整わない時代にあって、明治政府は社会の近代化を推進するため、有力者層の子弟に海外留学を奨励していた。井上兄弟だけでなく、当時は公家や旧大名、有力な家庭の子弟が数多く海外に渡っている。

 井上が学んだ学校は、ロンドンのユニバーシィティ・カレッジ・スクール(University College School London)である。当時イギリスに留学した日本人の多くが学んだ学校で、初等、中等教育をおこなっていた。井上の遺品には現地で使った英語、フランス語、数学などのノートがあり、この学校で一般的な中等教育を受けていたことがわかる。しかしイギリスに着くとまもなく、井上は目新しい西洋絵画に心を奪われていったようだ。画面の年記を手掛かりに現存する作品を時代順に並べると、最も古いものは1873(明治6)年11月28日の制作、渡航の約半年後である。その後もイギリスを離れるまで、絶え間なく制作を続けている。

 これも「近代徳島の美術家列伝」展図録に記したことだが、渡航当初の稚拙な模写と図版に掲げた的確なデッサンを見比べると、イギリス時代の井上に適切な指導者がいたことがうかがえる。また全身の石膏像がどのような場所に設置されていたかと思いをめぐらすと、やはり美術学校や画塾のような場所にたどり着く。具体的な場所は不明だが、井上はユニバーシィティ・カレッジ・スクールに学ぶかたわら、本格的な美術教育を受けていたと考えるベきだろう。

 井上が亡くなったのは帰国した翌年、1877(明治10)年8月である。ロンドンで患った肺病が原因だった。帰国してまがなく、しかも幼くして亡くなったため、井上は日本の美術界に何の痕跡も残していない。しかし日本が西洋美術を受容しはじめた時期の、興味深い一例といえるだろう。

 ところで、イギリス留学中に西洋絵画に魅せられていったのは井上だけではない。国澤はいうまでもないが、それ以外にも井上の周囲にいた日本人たちの中に、洋画を学んだ形跡がある人物がいる。日本からの留学生の間で西洋絵画は共通の関心事であり、その中で井上の興味が育まれていったとも考えられるのだ。次回ではそのことについて述べたい。


徳島県立近代美術館ニュース No.53 Apr.2005
2005年3月
徳島県立近代美術館 江川佳秀