[研究ノートから] 銅像の運命

 美術品といえば美術館で鑑賞するもの、そんな感覚をお持ちの方も多いのではないでしょうか。ここでは、ちょっと趣向を変えて、町の中にある美術品=銅像についてご紹介しましょう。銅像といわれても、そういえば公園に何かあったような、という程度の印象でしょうか。現代では、銅像をしみじみと仰ぎ見る人も少ないと思います。この銅像、本来はどのような意味を持つものなのでしょう。

 銅像について語るには欠かせない本があります。それは『偉人の俤』(いじんのおもかげ)という本です。この本は、日本全国の銅像について、その写真及び人物の伝記と解説を載せた本で、昭和3年に発行されています。巻頭に掲載されている発刊の趣旨は「偉人傑士は人中の麒麟にして国家の至宝なり」と始まり、「吾社は時勢人心の傾向に鑑みて、前を提げ後を起すの必要を稽へ、偉人の功業並に芸術の極致を併せ輝かし、一は以て国体の精華民族の精神を顕昭し、一は以て現代芸術建像の設計墓石の構造等を含める崇高の好尚を中外に啓明せんが為め(中略)本書編纂の計画を大成したり、日本歴史の精粹を摘み、兼ねて芸術の鑑賞を擅まゝにするに於て蓋し遺憾なしと信ず」とその意義を高らかに述べています。この発刊の趣旨には、銅像の持つ意味が明確に語られています。それは、銅像が、その社会に属する人々にとって貴重とされる偉大な人物を記録し、人々が優れた芸術作品として造形されたその姿を見ることによりその偉業が伝えられ、後世の人々が啓発されるべきものであるということです。つまり、銅像の使命は伝えることにあるといえます。

 この『偉人の俤』には、実に650体もの銅像の写真が掲載されていると凡例にあります。徳島県からは、〈神武天皇像〉〈蜂須賀正勝像〉〈岡本監輔像〉の 3体が収められています。このうち、〈神武天皇像〉は眉山の中腹にあたる大滝山に現存していますが、他の2体は残念ながら残っていません。徳島中央公園にあった〈蜂須賀正勝像〉は、戦争中の金属回収でなくなり、戦後になって同じ場所に〈蜂須賀家政像〉が建てられています。人物が変わってしまっているのです。そして〈岡本監輔像〉ですが、『偉人の俤』に記されている所在地である眉山大滝山の八坂神社には、現在、石の台座のみ遺されています。台座は破損しているものの、側面には「大正元年十二月 韋庵會」と刻まれているのを読むことができます。このように、わずか3体でも、70年の年月を経て、現存するもの、同じ場所で像が変わってしまったもの、そしてその場所には台座しか残っていないものと、様々な運命で、銅像が伝えるという使命を果たすことはなかなか難しいようです。

 ところで、岡本監輔の銅像については、現在は、昭和39年に新たに別の場所に建てられた像が存在しています。それは、眉山の麓、旧徳島県博物館前の観光バス専用駐車場の緑地帯にあった〈韋庵岡本監輔先生之像〉です。ここで、「あった」というのはどういうことかというと、その場所にあると書いてある文献もあり、私の平成5年の調査でも確かにそこに存在して写真も残っているのですが、現在はそこには無いからです。去る7月、阿波踊り会館がオープンしたことは、みなさんご存知のことでしょう。これは、旧徳島県博物館の建物を取り壊して、新しく観光の中心となる施設を建てたものですが、これにあわせて、観光バス専用駐車場も模様替えが行われたのです。そして、銅像は移転していたのです。移転先は徳島市から西へ約40キロ離れた穴吹町役場前です。穴吹町は岡本監輔の出身地ですから、像は故郷へ帰ったともいえるでしょう。


徳島県立近代美術館ニュース No.32 Jan.2000
1999年12月
徳島県立近代美術館 安達一樹