巴里憧憬 エコール・ド・パリと日本の画家たち

ふらんすへ行きたしと思ヘども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん
(萩原朔太郎「旅上」より)


今でもこの詩が人々の口の端に上ることがあるように、日本人にとってフランスが特別な場所だった時代がありました。ふたつの大戦にはさまれた1920年代から30年代にかけて、第一次大戦後の好景気を背景に、フランスではさまざまな芸術が一斉に花開きました。音楽や舞踏、文学など、世界の芸術の中心地のような様相を呈しています。日本に限らず世界中の若者たちにとって、フランスとはあこがれの場所だったのです。
 美術の世界に目を向けると、日本からも無数の画家がパリの街に引き寄せられています。一説によると、常時数百人の日本人画家がパリに滞在していたといわれます。時代はまさにエコール・ド・パリの時代。この展覧会では、あこがれの地で全盛期のエコール・ド・パリを目のあたりにした日本人画家たちが、それをどう受けとめ、どう身を処したか、あるいは祖国の美術界に何を持ち帰ったか、そういったことを考えてみたいと思います。

エコール・ド・パリの作家


会場の冒頭では、まずシャガールやキスリング、パスキン、ユトリロなど、エコール・ド・パリの画家たちの作品をご覧いただきます。ロシア出身のシャガール、ポーランド出身のキスリング、ブルガリア出身のパスキンと、彼らの多くは異邦からパリに流れ着いた画家です。貧しく悲惨な生活の中から、それぞれの個性を見事に開花させました。一見すると華やかな作品ですが、画面には不安や哀愁も漂っていそうです。
 エコール・ド・パリといっても、特定の流派や美術運動を指す言葉ではありません。彼らを総称した、いわば「パリ派」といった意味です。美術の中心地パリを讃える言葉ともいえます。

目指せエコール・ド・パリの頂点−藤田嗣冶とその追随者たち


エコール・ド・パリの日本人画家として最も知られているのは、いうまでもなく藤田嗣治(レオナール・フジタ)。しかし藤田だけでなく、エコール・ド・パリでの成功を夢見て藤田の後ろ姿を追いかける多くの若者たちがいました。海老原喜之助や高野三三男、徳島出身の板東敏雄などです。当初は一時的な留学のつもりで渡航したはずですが、エコール・ド・パリを目撃し、そこでの成功を目指してパリに腰を下ろしました。藤田ほどではないにしても、いずれもパリで画家としての評価を獲得しています。彼らも間違いなくエコール・ド・パリの画家だったといえるでしょう。

エコール・ド・パリの日本画家−テク二ク・オリアンクル!


国内ではあまり知られていませんが、当時のパリには日本画を描く一群の日本人画家が暮らしていました。出島春光や蕗谷紅児、原勝郎、金子光晴などです。原の本当の姿は洋画家、金子は日本画を学んだ人ですが、むしろ詩人として知られた人です。彼らがパリで絵を売って生活の糧を得ようとすると、一番手っとり早かったのはフランス人の東洋趣味を満足させる日本画を描くことだったのです。現在もフランスのオークションなどで、時折作品を見かけることがあります。エコール・ド・パリの末席に居場所を見つけた画家たちといえるかもしれません。

芸術の都パリ−画家たちの聖地巡礼


この時代、パリを訪れたのは若い画家たちだけではありません。一時的に旅した画家、結果としてパリに骨を埋めることになった画家と人それぞれですが、何でわざわざパリに行ったのだろうと、首をかしげてしまう画家たちがいます。石井柏亭や三宅克己は国内の画壇ですでに名声を獲得し、すでに大家といってもいい存在でした。田中保や清水登之はアメリカで画家として名声を博していました。いずれもパリに行ったからといって、大きく絵が変わったわけではありません。また小野竹喬や土田麦僊らは、日本画家でありながら連れたってパリの街に遊んでいます。洋画家、日本画家にかかわらず、画家たる者一度は「芸術の都パリ」を見ておかねばならぬ、そんな思いが当時の美術界には広がっていたのだと思われます。エコール・ド・パリの栄光を物語る現象といえるでしょう。


美術思潮の伝道者−留学生が見たエコール・ド・パリ


この時代に急増した美術留学生の存在も見逃せません。「芸術の都パリ」に学んだ彼らは、次々と新しい美術思潮を持ち帰り、日本の美術界に新局面を切り開きました。それまで日本の美術界は、限られた数の留学生と洋書がもたらす情報でわずかにフランスの美術界とつながっていました。しかし本場の美術を身につけて帰国した前田寛治や佐伯祐三、伊原宇三郎らの登場で、日本の美術界はフランスの美術界と同時代的に展開するようになったのです。しかしよく観察すると、この時代にパリでもてはやされた美術と、留学生が持ち帰った美術には微妙なずれがあります。彼らの作品にエコール・ド・パリの華やかさはなく、重厚で生真面目なのです。本場パリの美術ではあっても、日本の美術界はその全てを受け入れることができなかったのでしよう。我彼の芸術観の違いかもしれません。

古城の静寂の中で−齋藤豊作の交友圏


この時代フランスに滞在した日本人画家の中には、エコール・ド・パリの喧嘩から遠く離れて、沈黙を守り続けた画家がいます。齋藤豊作は二科会の創立に参加したあとフランスに渡り、寒村の古城に居を定めました。制作は続けたものの作品はほとんど発表せず、日本の美術界とも、フランスの美術界とも疎遠になっていきました。しかし彼のまわりには長谷川潔や児島虎次郎、岡鹿之助など、この時代フランスに滞在した大切な画家たちが集まっています。エコール・ド・パリを目の当たりにした日本人画家の身の処し方としても、画家たちの交友関係を考える上でも、興味深い存在です。

(学芸課長 江川佳秀)