徳島県立近代美術館
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鑑賞教育レポート・吹田文明展

会場

絵とお話をするということ

竹内利夫

 例えばこんな経験がないだろうか。ある名画なり見知らぬ作家の絵でもいい、「この絵の良さが分かるかい?」などと問われ、あるいは「ご感想は?」ともっと控えめな質問でもいい、いずれにせよ恥をかくのがいやで、言葉を選んでいる内に口ごもってしまうこと。
  その時、人は自分の見たものを信用していないのかも知れない。そこに予備知識や参考書があれば、見方が深まると言えばそういう面もあるだろう。だけど、それだけでは何か大切なことが置き去りにされている。

 絵に対する何の下調べや誘導もなく、子どもたちが書いた詩。中には、大人の目から見て「それはないだろう」とつい突っ込んでしまう物語があるかも知れない。作家のつけた題名、およその画題を察して、その絵の「正解」ではないとつい考えるからだろう。けれども、絵のどの部分から、絵のどんな様相から、その子が想像を紡いでいったのか、もう一度絵を眺めてみると。聞こえてくる。まるで作品が生き物のように、詩を書いた子と絵が一つになったかのように、絵が動き出すかのように「ふと違って見える」体験に誘われる。その時、僕たちはあることに気づく。自分も今、絵とお話をしているのだと。
  何回か「鑑賞遊び」の授業を経験してきて、やればやるほど僕は深みにはまっていくような思いがする。それは今回の展覧会を担当して一層強く思われた。なぜなら現役作家のワンマンショーを作家とともに組み立てながら、僕自身が作家の制作遍歴をたどることで、他の人の感想を聞くことで、絵の見方が変わっていく経験をしたのだし、画家の長い歩みに横たわる「その人」をこんなに見つめた仕事もまれだった。だのに、というかだからこそ、初対面の子どもたちがごく自然にすうーっと画家の心に侵入していく様子が不思議でならなかった。はっきり嫉妬心を認めたら良いのだろう。なぜ僕よりも簡単に、画家や作品の真実と対話することができるのか。
  鑑賞の勉強を一緒にする時に、子どもたちの発見や気づきを大事にしたい思いと、これまでの大人たちの膨大な調査や論考の積み重ねに触れてもらいたい思いと、両方のバランスを気づかう。どちらを優先するのだという議論になると、いつも行き詰まってしまう。だけど、そろそろ乗り越えたいと感じている。
  計器と地図をもっていないと着陸できないのか、目の前に地図はあるのだと気づきさえすれば、どこにでも飛べてどこにでも着陸できるということなのか。子どもたちと意見を交換・交感していく内に、何を悩んでいたのか忘れてしまう。
  子どもはセンスが良いから、純真無垢だから、芸術が分かる、という言い方は僕はきらいだ。子どものことも芸術家のことも馬鹿にしているように聞こえるから。絵とお話をするということは、そんなに特別なことだろうか。「小学生の鑑賞活動は、伝え合う人がいる時に意欲的主体的な活動が生まれる」とは濱口さんの経験的主張だ。そのことを通してやっと、人は自分の見たものを信用できるということなのかなと思う。果たしてそれは小学生にだけ必要なことだろうか。

 見学の中休みに、「やまなし」の一節を朗読した。「あっ見えた…」とつぶやく子。水底の景色を眺めるように演じる僕につられて、展示室の天井をすうーっと見上げる子。遠くから不思議そうに眺めている子。朗読はほんの短い部分を暗唱して終わり。それは絵を説明するためでもなければ、当の文学作品を説明するためでもない。見るという行為は常に動いていると言いたかったのだと思う。
  絵と自分の関係が、だんだんに変わっていく楽しみ。幼い頃に絵本を読んでもらった時の、どこへでも旅することができる、どんな世界でも手でつかむことができるような、あの楽しみを誰でも、大人になった僕でも、また手にすることができるんだよ、そう伝えたかった。でも、そんなこと、あの子らはもう知っている。僕は僕のために、そう伝えたのだった。

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