徳島県立近代美術館
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吹田文明展 華麗なる木版画の世界

木版画の光-吹田文明の半世紀

竹内利夫

出発点

 吹田文明は抽象の作家である。少なくともそこから出発した。最初期の版画作品は、リズミカルに有機的な形や幾何学模様が交差する。《遠い思い出》(cat.no.1)、《開く》(cat.no.2)といったタイトルが付けられている。メビウスの輪のようにねじれたリボン形が蝶のような《2ツの形》(cat.no.3)であったりする。または円の紙片や紐、木片などを即興的に配置したアサンブラージュを思わせるもの、マーブリングと描画を組み合わせたものなど、1954年から60年頃までは複眼的な関心を版的な表現方法に向けていた。
 というよりも作家は同時並行して油彩画を描いていた。1960年のモダンアート協会展出品作《黒い線》(本カタログp.163参照) 註1) は、やはり墨流しを取り入れ、流動的で獰猛な印象を与える。ちょうど吹田文明が本格的な発表活動を開始した1956-57年という時期は、日本人画家たちのあいだにアンフォルメル流の作風が流行し、ほどなく1960年には批評家東野芳明による反芸術の語が、読売アンデパンダン展で人目を集めた破天荒な作品群に与えられ、話題を呼ぶといった時代であった。時代思潮を敏感に感じながら尖ったセンスで求める絵画を模索した作家のその出発点に、アンフォルメルがあることは重要である。のちの吹田版画を貫く構造の明快さ(版画手法の、また空間づくりの)と、一見相容れないように見えて、実は作家の内面に強い磁力を発してきた。
 約40年のあいだを置いて、マーブリングの個展 註2) を発表していることにも、それは見てとれる。しかし、もっと根深いところで、作家の表象意欲を支えるふたつの原理の一方が、直観的で自在な絵づくりを保障する、吹田にとってのアンフォルメルの心情であるというのが、ここでの視点である。それは1950年代後半の時代を呼吸するなかで作家が出会ったものである。
 ところが本当は、もともと吹田文明が日本画を志したこともあるというエピソードは、さらに暗示的である。終戦後、上京し同郷の先輩であった東京美術学校教授の日下八光を訪ねた吹田は、「日本画は滅び行く芸術だから止めた方が良い」と諭される。註3) 徳島師範学校に在校中は空襲をものともせず水彩や油彩を描いていたというから、不自然なことではなかろう。しかしここには、作家の根底に自然への大らかな憧れが秘められていることを知る鍵がある。半世紀の長きに及ぶ彼の制作を常に支えてきた、もう一方の原理とは自然との交感であったように思われるからである。直感的な抽象表現の衝動と、自然への憧憬、このふたつの原理に、彼の絵画は当初から根ざしていた。

木版化・抽象化・構造化

 モダンアート協会、日本版画協会、ほかにもグループ展やコンクールへの発表を重ねながら作家は、次第に木版表現に対するスタンスを明確に掴んでいく。〈眼球体〉シリーズが成立する過程で作家は、紙版の透明な色合いと木版の黒の相乗効果をさまざまに試しながら、機械と人間のテーマを掘り下げていった。ひしめき群生する「目玉」は工業化社会・高度経済成長へ突き進もうとする時代の人間の寓意にほかならない。抽象的な構成に詩情を手探りしてきたそれまでの制作に、はっきりとしたテーマ性が込められたことで、かえって作家は内なる作画の論理を整理することができた。版画としての構造-吹田文明の場合特に重要な、言わば前景の黒と奥に光る色彩の対比する空間性が、納得のいく絵づくりの仕組みとして見出された。それに伴って、円や矩形の抽象的な形が担う役割もシンプルに削られていく。総じて、作家の目指す世界観は純化され、初期の作風がひとつのまとまりを見せることになる。
 1958年の第1回グレンへン国際色彩版画トリエンナーレで、《限球体》(cat.no.44)が受賞したことは、作家にとって大いに励ましとなった。前年に創設された、第1回東京国際版画ビエンナーレの公募展にはもれていたのだから名誉の受賞である。1960年の第2回展には招待され、そこに作家は《嵐は夜来る》(cat.no.53)など新しい実験作をもって臨む。異なる向きの、板目の筋と彫りのストロークで構成される黒一色の画面から、吹田のラワン・メゾチント法は始まった。1962年頃から、《方形の中の空間》(cat.no.64)のような赤の世界、《水槽B》(cat.no.68)のような青の世界をひとつひとつ耕していく様子は、往時の作家の熱中ぶりを伝えてくる。この手法において作家吹田文明が、木で話す言葉を明解に手中に収めたことは疑いない(本カタログ所収の村上由美による考察を参照)。のちの色彩画家としての歩みからすれば、ここで一旦、モノクロームに戻って光と闇を一から構築していったところに、続く展開の原点を見る思いもする。完全な闇を手にすることで浮遊のイメージもまた見出されていく。《うく》(cat.no.57)、《浮遊》(cat.no.61)などの作例がある。
 1955年に若手教員たちと教材としての版画研究を始めたことが、作家と版との出会いであったという。教育課程において明らかにされているべき、素材と目標の明晰さを見抜く視点と、作品の制作においても重要であるはずの(とりわけ版画領域であれば)、手法の必然性を整理する態度には共通するものがあった、と言うこともできるだろう。「いい意味でのアルティザンである」と評したのは、彼の制作を最も早い時期から見てきた評論家の岡本謙次郎であった。註4) この批評を作家は気に入っていたようだ。1955年から62年にかけて作家は、複眼的な試行錯誤のなかで自分の絵画論を探り当てていった。それは直感的で自在な絵づくりを支える枠組の保障であり、そのために木版画の構造化と抽象化は進んだ。それが手段であって目的ではないことを強調しておこう。

サンパウロ受賞をめぐって

 ところで吹田文明が版画に着目した1955年から60年前後は、日本の現代版画が大いに注目されていく時代の幕開けでもあった。1955年に棟方志功が第3回サンパウロ・ビエンナーレのメタルルジカ・マタラッツォ賞、翌年の第28回ヴェネチア・ビエンナーレでも版画部門グランプリ、翌々年の第4回サンパウロ・ビエンナーレでは浜口陽三が最優秀賞といった受賞が続く。棟方受賞のニュースは、吹田自身にとっても版画への関心を高める出来事であったようだ。そして1957年には東京国際版画ビエンナーレが開設され、若手作家の登竜門的な意味合い以上の議論の場、またある種の権威となっていく。版画の購買層のすそ野が広がっていった状況も一方にあり、1960年代末には「版画ブーム」という語が取沙汰された。そのような時代に、彼は版画への自覚を深め、頭角を現わしていった。
 《群生》(cat.no.79)において完成する、密集し放散する光点の世界は、現代人の寓意としての〈眼球体〉シリーズのテーマ性と、色彩と闇を操る作法が実を結んだ、吹田版画の作風展開におけるひとつの高みと言ってよいだろう。この作品は1965年の第36回ノースウエスト国際版画家展で大賞を受賞する。そして、続く一連の光点の作品群によって1967年の第9回サンパウロ・ビエンナーレの代表に選ばれ、版画部門の最優秀賞を受賞する。《野の2人》(cat.no.87)など8点が出品された。
 受賞の背景を振り返っておこう。コミッショナーの画家益田義信の報告によれば、「大規模に、百四十点の日本の現代版画を出品し、あわせて特徴的な日本画を並べることにした。受賞だけに重点をおくのは意味ないことだが、多少これをも意識しながら、現代日本美術を紹介するのがねらいだった。」註5) このねらいが、9カ国から招かれた審査員たちに相応のインパクトを与えたことを、当の審査にあたった久保貞次郎は報告している。註6) 日本代表の作家たちは新旧織交ぜ実力伯仲の面々であり、そのなかで決戦投票に選ばれたのは吹田だった。海外の記者たちは彼を「花火の男」と呼んだというが、その作風が明快なポピュラリティを獲得していることを物語っている。久保は日本作家が注目を集める理由を、「技術的にはこみいった技法を、たくみに使いこなしている点にある」と述べている。海外の目から見てもなじみの深い日本の木版画を、強く斬新なイメージに塗り替えながら、けれど嫌みのない明朗さに昇華させた吹田版画は説得の強さをもっていたのである。後年の個展評で小倉忠夫は「拡散する華やかなエネルギーの一瞬の定着」とその特質を言い当てている。註7)

1960年代という背景、その後の展開

 「現在の日本の版画界は池田式のカリグラフィックでオートマティックなエッチングが風靡していて吹田の言う“絶対造形的構成”様式は不当に扱われているようだが、今度の受賞によって、絶対構成派にもスポットが当てられたことになり、この系統の作家も陽の目を見ることになろう。」註8)
 これはサンパウロ受賞直後の雑誌記事である。吹田文明が版画家としての作風を確立し、サンパウロ受賞へと至る時期はちょうど、日本の現代版画が新規性・批評性を求めて先鋭化していく時期と重なっていた。1979年の第11回展まで続いた東京国際版画ビエンナーレは、その討議の場としてさまざまな問題を提起することになる。註9) 概して現代版画批評はメディア論、プロセス論といった現代美術の先鋭的な議論に同調していく。それはやはり、吹田の求める「絶対造形」といった発想とは異なる軸で展開する状況であった。これもまた時代の巡り合わせと言えるのだろうが、往時の批評から距離を置いて作家の全貌を見渡せる立場にある私たちは、さらに多面的な視点からその軌跡に理解を深めていく必要があると思われる。
 いずれにせよ吹田文明は、1969年から多摩美術大学に身を置き、あらためて版画教育の活性化と自己の絵画世界の深化に力を注ぐ日々を送ることになる。本展覧会で「ビッグバン」として紹介した1970年以降の作品は、かつての星々や花火を連想させた光点の集積による抽象性から、より鮮烈な交響空間へと飛躍を遂げている。〈青の世界〉のシリーズ(cat.nos.106,108~110)に見られるように、真空に浮遊する惑星体や光線状の表現へと作家のテーマは展開した。それは彼が絵画に求めた永遠なる世界を謳歌せんとする、ごく自然な流れとも言えるだろう。
 一編の展評がある。まるで美しい詩のような文章の中で嶋岡晨は、吹田自身もあるいは知らない、その造形世界の懐を探り当てているように思われる。註10) 1970年の個展に出品された《朝未明》が図版として取り上げられているが、本展では《雨のあと》(cat.no.98)、《星と風》(cat.no.100)といった作品が符合する。「自己を主張するより前に、また方法に決着を与える前に、作家のこころに侵入する『自然』の暗号的はたらきの解読に忠実である。そのすなおな優しい感覚から出発する『自然』のとらえかたが、彼の木版画にこのうえなく微妙に美のうまみをかもし出している。」
 この時期、作家は堰を切ったように大地や大海原を想起させる叙情的な作品を生み出した。《land陸》(cat.no.136)、《潮》(cat.no.138)などの作例もある。抽象の作家として出発した吹田文明の別の一面を覗かせる作品群だが、実はもともと折りに触れ作家は、自然の心象とも言える情景を作品のなかに忍び込ませていた。たとえば《氷湖》(cat.no.66)、《春雷B》(cat.no.85)などのように。とはいえ1970年頃のこうした挑戦は、長い制作歴のなかではさほど量を占めていない。のびのびと自然への憧憶を描き切ったところで、作家は再び宇宙という大きなテーマのなかへ自分を投じていくのである。それは自らの木版手法にさらに強く新鮮な切り口を求めた、吹田文明ならではのフロンティア精神の要請するところだったかも知れない。けれども、結果的に作家は戻ってくる。戦後50年を経た、失われた友への思い、生きながらえてきた自分の人生への思いを作品化しようとする時、作家は何かふっきれたように心象風景の描出にストレートな具象性を持ち込んでくるのだ。
 嶋岡は先の文章の中で、重要な指摘をする。「この作家にとって『自然』はもはや抽象造型の人工性への対立概念ではないのだ」。詩人嶋岡晨による批評は、吹田文明が自らを抽象の作家と規定して出発したことで、乗り越えねばならなかった当の本人しか知り得ないハードルを、すでに優れて氷解しているのだと共感的に後押ししているように思われる。あるいは、そのようなハードルはないのだと。この批評が深く作家の内的課題を共有し得ているのは、それが吹田文明の技法ではなく、その人の絵を語っているからだ。

近年の制作から

 再び岡本謙次郎の言葉に戻ろう。彼は吹田をアルティザンと評した。描かねばならないテーマのために作家はいまや、変幻自在に基本となる自分の手法を組み替え、見る者を吸い込むような強い作品を生み続けている。《悲しみのニケ(Ⅱ)戦後60年戦火未だ消えず》(cat.no.158)といった作例を挙げるまでもなく、近年の制作が「感情」をテーマとしていることは明らかだ。それは作家の中にあっては、秘められたもの、“絶対的造形”から排されてきたものであったのかも知れない。しかし現在から過去に向かって、作家の自問と超克の遍歴を見渡しながら、いま一度この絵に目を向ける時、作家吹田文明の悠久の存在への畏敬に身を委ね1枚の絵を描こうとする姿勢には、芯の通ったものを見る思いがするのである。

 10年ほど前になるが、徳島県立近代美術館所蔵の吹田作品64点をまとめて展観する機会があった。作家の思考に寄り添って書かれた往年の朝日晃の評論 註11) にならって作風の展開を自分なりに辿ってみたことだった。「生きているように刷りたい」と作家は言う。その言葉を当時は、にぎやかなマチエールからこぼれ出しそうな吹田文明のバイタリティ、あるいは、直観的で偶然的な描線や構成に現われる、素直でくったくのない作家の気性を言い当てるものとして論考の結びに引用してもみた。
 いま再びその言葉と現在進行形の作家を前にする。自分だけの自在な言葉をついに手中に収め、戦後を駆け抜けた自らの出発点に対する思想を紡ぎ出そうとするかにも思える、作家の航路へともに目を向ける時、私にはかつての作家の言葉が、「刷ることで生きてきた」と聞こえるような気がしてならない。作家は繰り返し、「1枚の傑作を描いて死ぬ」という若き日の決意を思い出し語っているが、半世紀に及ぶ制作の流れを見渡す時に、その言葉は格別の重みをもって響いてくる。現代版画の、もうひとつのリアリティをそこに感じる気持ちとは感傷に過ぎないものだろうか。
 作家からお預かりした膨大な作品を、世田谷美術館の収蔵庫で調査していた時のこと。見知ったつもりになっていた絵が、ふと違って見えた気がした。《南に散りし友に捧ぐⅡ(戦後50年の鎮魂詩)》(cat.no.148)の、遠く手の届かぬ場所を思わせるような光、あるいは《銀河を渡るB》(cat.no.151)の、すべてを圧倒するほどの焼けつくような光。それらの光は美しく、まざれもなく吹田文明の版画世界で培われてきたものであるには違いない。その明るい歌を私たちは聞き楽しむが、ふと光に隠された影の部分、散った命、拾った命の存在に思いを馳せてみた時、この作家の明るさの本質と出会えたような気がした。50年刷ってきた作家の人生をもまた、この光は照らそうとしているのではないだろうか。「生きているように刷りたい」という作家の言葉をもう一度受け止めたいと思う。この作品を見る時私は、刷ることで生きながらえてきた、残された者の命の輝き、後へ引くことなど自分が許せなかった切実なエネルギーの真価に出会うのだ。絵は人を育てる。見る者は絵に育てられるのであり、それは私だけではなく、当の画家自身にとっても同じことのはずだし、絵とはそういうものだろう。そこに版画も油絵も区別はない。
(徳島県立近代美術館 主任学芸員)

1)吹田文明『吹田文明全版画集』講談社、1997年、No.120
2)「流れる時を捉えて 吹田文明マーブル・ワールドの世界」展、日動画廊、2001年8月1日-10日
3)吹田文明「人生の達人」『たまびNEWS』No.18、1999年
4)岡本謙次郎「吉田政次・吹田文明 版画展 案内状」第七画廊、1967年4月
5)益田義信「サンパウロ第九回国際展に参加して」朝日新聞1967年10月7日夕刊
6)久保貞次郎「水準の高い日本版画 サンパウロ・ビエンナーレを審査して」
 読売新聞1967年10月11日夕刊
 久保貞次郎「サンパウロ・ビエンナーレを審査して」『国際文化』第162号、財団法人国際文化振興会、1967年12月
 吹田文明をはじめ、尼野和三、天野邦弘、榎戸真喜、深澤幸雄、萩原英雄、星襄一、加納光於、城所祥、日下賢二、宮下登喜雄、村井正誠、笹島喜平、白井昭子、高木志朗、吉田穂高、吉田政次、吉原英雄、そして日本画の片岡球子、丸木位里、20名の作家が出品された。
7)小倉忠夫「版画展評 吹田文明個展」『季刊版画』第2号、1969年1月、pp.68-69
8)「吹田文明の受賞」『芸術新潮』第18巻 第11号、1967年11月、pp.22-23
9)東京国際版画ビエンナーレが、言わば現代美術の展覧会として議論を拡大していった状況については詳細な考察がある。
 「特集 現代版画の黄金時代 検証・東京国際版画ビエンナーレ展と70年代」『版画藝術』97号、1997年9月
10)嶋岡晨「個展評 吹田文明個展(第七画廊)」『日本美術』vol.13 第69号、1970年7月、pp.67-68
11)朝日晃「吹田文明論-木版のなかの虚と実の可能性を希求する」『版画館』第3号、川合書房、1983年6月、pp.25-37

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