どうしても美しいと思えない絵があります。あれも「美術」なのですか?

 時折いただくご質問に、このようなお尋ねがあります。ちょうど1年前にも、同じようなことがありました。受付から連絡があって所蔵品展の会場へ行くと、老婦人がふたりお待ちでした。そして中村正義の〈男と女〉の前で、申し訳なさそうにお尋ねになりました。「美術って、美しいものと思っていました。世代が違うからかもしれませんが、お若い方はこういう絵を美しいと感じるのでしょうか。」

 中村のこの作品は、日本画とはいいながら蛍光塗料を用い、目も鮮やかな原色と奔放な筆使いで、デフォルメした男と女の顔を描いています。中村の代表的な作品の1つであり、60年代という時代の気分を濃厚に反映した作品です。間違いなく見る者の心を揺り動かす力を持った作品だといえるでしょう。しかし美しいかどうかといわれると、少々無理がありそうです。

 このような視点で会場の作品を見てまわると、「美しくない」作品がいくつもありました。まず本県出身の山下菊二が描いた〈父はは〉。怪物のように描かれた両親の姿、頭部を失った軍人、空間を漂う妖怪のような鳥、黄泉の国のような不気味な世界が描かれています。同じく本県出身の伊原宇三郎が戦争中に描いた〈汾河を護る〉。中国軍から奪ったトーチ力内部で仮眠をとる日本兵を描いています。達者で見事な筆使いですが、美しいのとはほど遠い殺伐とした光景です。お馴染みのピカソだってそうです。〈赤い枕で眠る女〉は枕の赤が魅力的な作品ですが、女性の身体は理解を超えた不思議な形に変形し、考え始めると落ち着かなくなります。

 3人で、これはいったいどういうことだろうと話し合いました。結論からいうと、美しくなくても美術であることには間違いない、問題があるとすれば「美術」という用語にあるのではないかという結論に達しました。
 言うまでもありませんが、芸術には美術の他に、文学、音楽などさまざまな領域があります。ところが文章で表現する芸術には「文学」、音で表現する芸術には「音楽」と、表現方法に則した名称が与えられているのに対し、美術だけは「美術」という表現方法と無関係な名称が与えられています。このことが無用の混乱を生じている原因だろうと考えたのです。

 たとえば、不朽の名作といわれるような小説には、人間の愛憎が克明に描写され、深く考えさせられる作品があります。しかしけっして美しい世界ではなく、むしろ後味がよくない物語だったりします。また名曲といわれる音楽にも、ことさら不安感や焦燥感をかき立てる曲があります。しかし好き嫌いはあっても、それらが「文学」であり、「音楽」であることに異議をとなえる人はいないでしょう。

 美術でも、文学や音楽と同じように美しいものだけが表現の対象ではないはずです。ところが美術には「美術」という曖昧な名称が与えられたため、「美」という文字に引きずられ、「美しくないのに美術なのか」という疑問を生むことがあるのです。

 美術という言葉が、現在の意味に近い意味で活字になったのは、明治5年が最初だといわれます。翌年ウィーンで開かれる万国博覧会の出品規定を翻訳するとき、"art"や"kunst"を指す言葉として、「美術」が採用されたのです。その後さまざまな場面で用いられ、"art"や"kunst"を指す用語として定着していきましたが、もとをただせば混乱の発端はこの時の誤訳にあったといえるでしょう。

 会場をまわりながら、試みに3人で「美術」にかわる言葉を考えてみました。3人が思いついた言葉は「形学」あるいは「形楽」。美術は形で表現する芸術です。文章で表現する「文学」、音で表現する「音楽」と対比させるなら、このような言葉も可能かと思うのですがいかがでしょうか。


徳島県立近代美術館ニュース No.43 Oct.2002
2002年9月
徳島県立近代美術館 江川佳秀