歴史的な流れも見ておきましょう。展示作品のなかで一番古い作品は、塩川文麟(しおかわ ぶんりん)〈韓信堪忍図(かんしんかんにんず)〉(一八七一〔明治四〕年 当館蔵)です。文麟は、江戸時代の末から明治はじめにかけて、京都画壇のリーダーだった人で、ここには、写生を大切にしながら水墨の味わいを溶かしこんだ描き方や、その後の日本では少なくなっていく、中国の物語を題材とした表現を見ることができます。
文麟が属した四条派を含め江戸時代後期の京都では、女性を描く場合も、楚蓮香(それんこう)など絶世の美女の物語と結びつけることがあり(注1)、物語と離れ、独立した美しい女性像が本格的に追求されたのは明治以降のことでした。西洋風の写実的な表現で実際の人物を見つめる経験や、四条・円山派(いずれも円山応挙の流れをくむ流派)や浮世絵の伝統も必要だったようです。出品作家では、山元春挙(やまもと しゅんきょ)〈西王母之図〉(明治二〇年代末頃 滋賀県立近代美術館蔵)が中国の物語を題材にした女性像の例となり、鏑木清方(かぶらき きよかた)〈夏姿〉(一九三九年 当館像)を、浮世絵の流れから現れた画家の例とすることができるでしょう。西山翠嶂(にしやま すいしょう)〈槿花〉(一九二三年 京都市美術館蔵)には、日本画の技法と写実が溶け合っています。先に見た、上村松園の気品ある女性像は、そのような美人画をめぐる流れのうえに生み出された成果といえそうです。

伝統と新しいものが混じり合ってつくられた人間表現の流れは、いろいろな角度から見ることができます。千種掃雲(ちぐさ そううん)の〈魚市場〉(一九一〇年 当館蔵)は、洋画風の実体感ある描き方や、庶民の姿(魚市場の人々)を群像表現で表した斬新なものでした。明治の作品のなかでは、横山大観(よこやま たいかん)、下村観山(しもむら かんざん)といった、日本美術院の指導的な画家の作品も展示しています。〈樹下苦行〉(明治後期 当館蔵)は、近代以前の画家には為しえなかったインド旅行も体験した大観が、苦行を終えた釈迦を人間味ある姿で描き出しています。観山〈毘沙門天 弁財天〉(一九一一年 当館像)[上]には、ヨーロッパ絵画の研究や、明治になって再発見された古美術の知識も取り入れてつくりだされた人物表現を見ることができるでしょう。
(注1) 江戸時代の後期、芸妓や遊女の姿が描かれた他、中国の故事から題材をとった唐美人がしばしば描かれ、そのいずれもが、近代の美人画へとつながっていきます。ちなみに例にあげた楚蓮香(それんこう)とは、唐代の絶世の美女で、外出すると彼女の香りの美しさから、胡蝶が飛び従ったといいます。人々が絵を鑑賞するとき、そのような物語が想像力をかきたてていたのです。
