徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
ドラ・マールの肖像
1937年
油彩 キャンバス
55.0×38.0
パブロ・ピカソ (1881-1973)
生地:スペイン
データベースから
ピカソドラ・マールの肖像
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パブロ・ピカソ 「ドラ・マールの肖像」

森芳功

 ドラ・マールは、1907年フランスのトゥール生まれ。父親は、ユダヤ系ユーゴスラビア人の建築家、母親はフランス人でした。少女時代の数年をアルゼンチンで過ごしたことから、彼女は、ピカソの母国語であるスペイン語も話すことができました。フランスに戻ってからは、パリの美術学校で絵画を学んだ後、写真家として、シュルレアリスム(超現実主義)の芸術家たちと交流し、国際的な展覧会(「国際シュルレアリスム」展 1936年 ロンドン)にも出品しています。
 二人が交際をはじめたのが1936年。ちょうどその年に起こったスペイン内戦について、彼女は的確な意見を言ってピカソを感心させています。翌1937年の「ゲルニカ」の制作では、写真家として制作過程を記録するなど、そばでピカソを支えました。
 しかし、ピカソは同じ時期、マリー=テレーズ・ワルテルとの交際も続けていて、制作中の「ゲルニカ」の前で、テレーズとドラ・マールが取っ組み合いのけんかをしたこともあったそうです。その頃から、ピカソの描くドラ・マールは、泣く女として描かれていきます。ピカソは後に、「私にとって、(ドラ・マールは)泣く女であった」と述べたほどでした。
 そんなピカソ自身、ドラ・マールに涙を見せたことがあります。何故泣いているのと聞くと、「人生はあまりにもひどい、あまりにもひどい」と言う以外に説明できない、と答えたそうです。ピカソにとって、故郷のスペインやヨーロッパが戦火にまきこまれたことと個人的な問題がない交ぜになり、苦悶した時期だったのです。
 「ゲルニカ」を制作した前後の時期、泣く女は集中的に描かれています。イギリス、テート・ギャラリー所蔵の「泣く女」のように油彩画となった作品だけでなく、ドラ・マールをモデルとして、数多くのデッサンが描かれ、「ゲルニカ」にも活かされていきました。「泣く女」や「ゲルニカ」に登場する人物とドラ・マールを表した作品を、一つ一つ比べていくと、どことなく似かよっているところがあるのに気づくのではないでしょうか。
 ただ、「ゲルニカ」では、制作過程で涙を流す表現が無くなっていくなど、変化している点にも注目してほしいと思います。深い悲しみや絶望を表すとき、涙はふさわしくないとピカソは考えたのでしょうか。無差別爆撃で傷ついていく人々を表した「ゲルニカ」の人物たちは、個人的な感情の表出とは異なり、人類の苦悩を表すものになっていったと考えることもできるのです。
 では、徳島県立近代美術館所蔵の「ドラ・マールの肖像」は、そのような作品のなかで、どんな位置にあるのでしょうか。同じ1937年に描かれた「泣く女」や「ゲルニカ」の肖像と比べると、大きく印象が異なります。二人の関係が、まだ穏やかな時期だったからなのか、知的で明るい表情をしているのです。ピカソが、優しい気持ちでモデルに向かい合っていることも伝わってくるように感じられます。
 もちろん、横顔であるのに右目だけが正面を向いていたり、鼻の穴が二つとも見えたりするなど、写真による肖像とは違う特徴も持っています。そこに、ピカソが若い頃にはじめた、いろいろな角度から見たようすを一つにまとめるキュビスム(立体主義)の手法があらわれています。でも、このことを難しく考えず、たとえば、二つの目の微妙な表情の違いを比較し、モデルのもついろいろな性格や感情を想像する手がかりや、作品鑑賞のヒントとすることが大切であるように思います。
 さて、その後、ピカソは彼女の肖像をどのように表現したのでしょうか。1941年に描かれた松岡美術館所蔵の「ドラ・マールの肖像」を見ると、涙はなく、静けさは戻っているのですが、どこか悲しみを秘めた表情をしています。ドラ・マールは、心の健康をこわしてしまったのです。1945年頃にピカソと別れたのですが、その後も長く神経衰弱に苦しんだと言われています。孤独な彼女の心のさまが、この作品には表れているのかも知れません。
鑑賞シートno.3 - 世界の美術・ピカソの肖像画 「指導の手引き」より
2005年11月
徳島県立近代美術館 森芳功